花いっぱいの権現堂堤と日光街道・幸手宿 (086)―10km

権現堂堤の曼殊沙華

[第3区間] 権現堂堤

幸手市観光協会「権現堂堤の歴史」によると、暴れ川と恐れられた権現堂川氾濫の被害を食い止めようとする人々の歴史がありました:

 権現堂桜堤は、天正4年(1576年)頃に築かれたといわれています。しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされております。
 権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)に、はじめて権現堂堤が切れてより、幾度も決壊をしてきました。その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されておりました。
 ……
 時代は江戸から明治へと移り変わり、明治9年6月4日に明治天皇の東北巡幸の際に築堤工事を視察するために駕籠を止めさせました。このとき、堤の名を行幸堤とすることが許され、記念碑を建てるために金100円が下賜されました。
 この頃、権現堂堤周辺は見渡す限り平野で堤上からは、西に富士山、東に筑波と眺めがよく、大正6年に「幸手町誌」を刊行した後上辰雄氏は、権現堂堤の風光として次のように記しています。
「春は若草のしとね青きを素足に心地快くふむで、眼下一面黄金と光る油菜の花をながめながら蝶と戯れスミレ・タンポポ・ツクシ等と摘み草に一日の暮れるのを忘れるだらう」

権現堂堤に咲く花

 権現堂堤は遠い昔より、人々の憩いの場所として親しまれてきました。たび重なる水害にもめげず、そのつど修復を行い、権現堂堤とともに人々は暮らしてきました。
 堤の上は桜並木になっていて、左右の斜面には、四季それぞれの時期の花が群落になって咲きます。
 現在では桜堤を守る「NPO法人幸手権現堂桜堤保存会」の方々が四季を通して、 (3月下旬~4月上旬) や菜の花 (3月下旬~4月中旬)、紫陽花 (6月~7月)、曼珠沙華 (9月中旬~10月上旬)、水仙 (1月上旬~2月中旬) の管理を行っています。
 開花情報、イベント情報は、県営権現堂公園ホームページ をご覧ください。
 堤の中央には「権現堂堤峠の茶屋」があって、甘酒や軽食を食べられます。花の時期には駐車場に屋台が出ていることもあります。
 トイレは、駐車場の脇にあります。

  • 2020年10月4日の曼殊沙華
オプション
中川と権現堂調節池
中川と権現堂調節池

 権現堂堤の北西側で、権現堂川が中川に合流しています。
 合流点には堰があって、権現堂川は、権現堂調節池あるいは行幸湖として湖のようになっています。
 権現堂堤と中川のあいだの河川敷には、菜の花畑が広がり、春、一面は真っ黄色になります。また、子どもたちが触れ合うことができるヤギの家もあります。
 中川を歩行者・自転車専用の吊り橋「外野橋」で渡ると権現堂公園 3号公園です。ここには、行幸湖や権現堂堤が一望できる展望台もあります。
 1 kmちょっとの寄り道になりますが、足を伸ばしてのんびりするのもいいですよ。

清保堂
清保堂
清保堂

 清保堂は、かつて権現堂堤の東南にあった熊野山正智院を開山した清保善士を祀ったお堂です。
 清保善士は1650(慶安3)年に亡くなり、ここに葬られたのですが、没後も耳の病気に悩む人々の信仰を集め、病気が治った人が錐(きり)を奉納する風習がありました。錐は穴を空けるので、耳の通りがよくなったことに通じるからです。

熊野権現社
熊野権現社
熊野権現社

 権現堂堤東端で堤と別れ、車道を南西に歩んでいくと、右側に熊野権現社があります。
 和歌山県の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名前の起こりでもあります。
 この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や船頭、江戸の商人などからの奉納品が数多く保存されています。明治28年に奉納された「権現堂堤修復絵馬」(本殿の中に飾ってある)は、当時の治水技術を知る貴重な資料となっています。(2011年に訪問したときは、これらの絵馬を見ることができましたが、2020年9月に訪れたときは、見ることができませんでした。写真のページに、2011年に撮影した絵馬の写真を載せておきました。)

 熊野権現社から車道を道なりに700mぐらい歩いていくと、左に、しまむらやスーパーマーケットなどが集積した大型ショッピングセンターがあります。歩いてきた道は、ここで日光街道(江戸と、日光の家康廟を結ぶ街道)と合流します。徳川将軍が日光に参拝するとき、江戸から幸手宿のあいだは、日光御成道という脇街道を使いました。

[第4区間] 日光街道幸手宿・正福寺~幸手駅

幸手市のホームページ、幸手宿についての説明があります:

幸手は、日光道整備以前より、利根川水系による河川舟運と、鎌倉街道中道の人の往来で、交通の要衝として栄えていたと言われています。
日光道整備後の1616年に、幕府により人馬継立を命ぜられ、幸手宿となりました。
幸手宿は日光道と日光御成道との結節点でもあり、重要な地であったと考えられています。
幸手宿は、日光街道の6番目の宿場町であり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ3番目の規模でありました。
現在の幸手市には、かつての面影を残す古民家や蔵などが残っており、幸手の歴史を感じることができます。

さらに詳しい幸手市の歴史は、幸手市ホームページの「幸手市の歴史」をご覧ください。

正福寺(しょうふくじ)
正福寺
正福寺

 真言宗智山派の正福寺本尊は不動明王です。新四国88霊場、埼東12番寺。昔は末寺49寺を誇っていた大寺で、真言宗本山修行25年以上の僧侶でないと住職にはなれなかったといわれています。
 また、学問の道場としても有名で、数多くの学僧が、仏教・儒教・朱子学等を学んでいたと伝えられている。
 境内には「義賑窮餓之碑」があります。天明3年の浅間山大噴火による火山灰と冷害とで大飢饉が起きたとき、幸手町有志が難民救済に当たったことを顕彰したものです。

聖福寺(せいふくじ)
聖福寺
聖福寺

 聖福寺は浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来、観音像は運慶作と伝えられています。三代将軍、徳川家光が日光東照宮参拝のおりに休憩所として使用されたのをはじめ、以後、歴代将軍や例幣使の休憩所としても利用された古刹です。
 三百五十年の歴史を有する立派な四脚門には「御殿所(休憩所の意)勅使門」の碑があり、扉には菊の紋様が刻まれています。かつては将軍や例幣使が来たときしか開けられませんでした。
 現在は、隣接している幼稚園園児の安全を守るためでしょうか、平日は門を閉じているとの掲示がありました。日曜日は境内に入ることができましたが、土曜日は門が閉じられていて、境内に入ることができませんでした。

雷電神社
雷電神社
雷電神社

 雷電神社へは、聖福寺に隣接している幸手さくら幼稚園の向かいの空き地(聖福寺駐車場)の脇から入ることができます。
 雷電神社は、明治以前の幸手宿の総鎮守。
 田の中に金色の雷神が落ち、これを祀ったので、「田の中の宮」=「田宮」としました。雷神は水との関係が深く、とくに農家の人々の信仰を集めました。
 社の裏には「登山道」のついた御嶽山があり、その横には、瘤(こぶ)神社・疣(いぼ)大権現・疱瘡(ほうそう)宮と書かれた石が建てられていて、皮膚病に悩んだ人々の素朴な信仰の姿を見ることができます。
 2020年に訪問したときは荒れていたので御嶽山に登りませんでした。写真のページに、山頂の様子、山頂から眺めた境内の写真を載せておきました。

幸宮(さちのみや)神社
幸宮神社
幸宮神社

 幸宮神社は昔、八幡香取社といい、創建から四百年以上の歴史をもつ古社です。神社の合祀が行われた明治42年に幸手の総鎮守となり、このとき幸宮神社となりました。
 現在の本殿は、1863年に再建された総欅造り。正面扉の両脇に昇り龍・下り龍が刻まれ、本殿の周りには獅子・鳳凰・天邪鬼・鷹・松などが彫刻されています。田起こしから収穫にいたる稲作の様子を描いた四季農耕の見事な彫刻もあります。2020年訪問時には、これらの彫刻を確認できなかったので、写真のページには、2011年に参拝したとき撮影した写真を載せてあります。
 境内には、大杉神社、八坂神社、稲荷社が祀られています。

永文商店(酒類食品小売)

 明治36(1903)年創業ですから、百年企業になります。
 こちらのお店の左側には、奥に向かってレールが敷かれていて、トロッコがあります。

永文商店
永文商店

 街道沿いの商家は昔から、間口が狭く奥行が長い「ウナギの寝床型」が一般的でした。江戸時代から日光街道の宿場町である幸手の「永文商店」は、そのような店の一つです。
 道に面して、一番手前が店舗、その次が住居、一番奥が倉庫という作りになっています。そのような形の店にあって、商品の入出荷の運搬に活躍してきたのが「トロッコ」です。
 当店の「トロッコ」は、全長約四十メートルのレールの上を、約一トンの商品を楽々と運搬することができる優れものです。戦前・戦中・戦後の激動の時代を乗り切って、今も現役で働いています。

永文商店ホームページ > 会社概要 より
満福寺(まんぷくじ)
満福寺
満福寺

 荏柄山満福寺は、真言宗智山派のお寺で、本尊の観世音菩薩は安産子育てに御利益があるといわれています。例年8月9・10日の四万六千日の御縁日(俗に、朝観音という)には、早朝から参詣する人が多く、とくにお産を控えた女性の姿が目立つそうです。
 天明3(1783)年、浅間山の大噴火に端を発した火山灰は関東一円を覆い、冷害と重なって、記録的な大飢饉となりました。しかし、幸手宿では地元の有力者21名が金品を供出し、満福寺で粥の炊き出しを行ったため、1人の餓死者も出さなかったといわれています。この21名の名を刻んだ「義賑窮餓之碑」は正福寺に建立されています。




コースの写真」は、086-花いっぱいの権現堂堤と日光街道・幸手宿 をご覧ください。
南栗橋駅~狐塚ヘルシーパーク」および「中川・昭和橋~常福寺」は、コチラ をご覧ください。
コースの特徴地図」は、コチラ をご覧ください。

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