階段と怪談がある街・四谷界隈を歩く (511)―6.5 km

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(5) 「半蔵門」という名称の由来となった服部半蔵正成

みなみもと町公園
跨線橋から四谷駅方面のJRトンネルを見る

みなもと町公園は、新宿区ホームページによると、「明治時代、公園の敷地を含む地域は御料地となり、その後、学習院用地、明治神宮造幣局の草木育成用地などに使用されました。昭和22年、正式に学習院所有地となりましたが、いくつかの変遷を経て、都市計画公園区域の指定をして東京都が買収、昭和39年に都立明治公園の一部として開園し、東京オリンピック時には、駐車場」にもなったとのこと (新宿区ホーム > 観光・文化 > 文化・観光施設 > 公園 > 新宿区内の公園 > 四谷・信濃町周辺 > みなみもと町公園)。
現在はちびっこ広場、多目的広場、森の広場からなる静かで緑多き公園で、鮫河橋坂に沿ってある。
森の広場には、夏涼しい人工の流れがあり、北側斜面にはビオトープがあって、木道をたどっていくと公園最上部の出口に上っていける。

この出口から左に、坂を上りながら歩くと、首都高新宿線、JR総武線・中央線を跨ぐ橋がかかっている。四谷駅方面を見ると、左のトンネルは3つの口を開け、右のトンネルは1つの口が開いていて、オレンジ色の中央線快速電車、黄色の総武線各駅停車が複線を行きかうのが、鉄道模型をみているようだ。
橋を渡り、カトリック・サレジオ修道会日本管区本部を右に見ながら、8mの下り坂をクランク状に進むと、鉄砲坂だ。

鉄砲坂
鉄砲坂周辺の坂道

「鉄砲坂」という標識が建っている場所付近が下ってきた坂の底で、ここから先は西念寺まで8mの登坂になる。その標識には、

「江戸時代、このあたりに御持筒組(おもちつつぐみ)屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったため [鉄砲坂と] 呼ばれるようになった。また、それ以前は、 この地に鈴振稲荷(現在は港区赤坂5の1)という稲荷社があったことから、稲荷坂と呼ばれていたという。」

とある。このあたりは、さすがに建物はマンションやビルに代わっているが、道路はほぼ江戸時代のまま残っているようだ。
詳しくは、温故知しん!じゅく散歩  新宿文化観光資源案内サイト 「鉄砲坂」をご覧ください。

西念寺は服部半蔵正成の開創
服部半蔵正成の墓

安養院西念寺は、忍者として有名な服部半蔵正成が松平信康(徳川家康の嫡男)の供養のために尽力し、開創した浄土宗の寺院だ。
「鬼の半蔵」とも呼ばれた服部半蔵正成は徳川家康の三河以来の旧臣で、江戸入府後は江戸城西門近くに居を構え警備に当たった。江戸城(皇居)の西にあり、甲州街道に通じる「半蔵門」の名前の由来は、このことに由るというのが定説らしい。
本堂には正成が家康から拝領した「服部半蔵の槍」が飾られている。長さ2.5mで、長い。
境内には服部半蔵正成の墓、松平信康の供養塔が建っている。
これらは、西念寺ホームページの「境内案内」に説明が載っている。
服部半蔵正成が松平信康のために、なぜ西念寺を創建しようとしたかの経緯は、西念寺ホームページの「西念寺由緒」に詳しい。
また、西念寺と服部半蔵については、「四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道 > ㉚ 西念寺あたりを南伊賀町、歴博あたりを北伊賀町、半蔵の配下が街道警護」がよく解説している。
なお、西念寺の墓地は「観音坂」に接しているが出入口はなく、入ってきた山門しか利用できないようだ。

西念寺からは、江戸時代からあると思われる細く平坦な道をたどっていくと、突然、「鯛焼きのしっぽにはいつもあんこがありますやうに」が社訓で、昭和28年から営業している「たいやき わかば」の前に出た。

新宿通り⇒しんみち通り⇒三栄通り⇒新宿区立三栄公園
新宿通りを横断

新宿通りに出ると、いままで歩いてきた道の静かさに比べて、往来する車や人の多さに目がくらむ。
すぐ右にある信号で新宿通りを横断し、そのまま直進すると、右に「しんみち通り」の飲食店街の賑わいが見える。
信号・四谷一丁目の交差点の先、防衛省方向に下る急坂が広い道路になっていて、見違える。
四谷一丁目の交差点を左折した三栄通りも、しばらく来なかったあいだに道路が拡幅され、しゃれた飲食の店が並んでいるのに驚く。
三栄通りを西に向かうと、会社勤めらしい人がベンチに腰掛け、小さい子どもたちの遊ぶ声が聞こえる新宿区立三栄公園がある。
その前の信号を北方向に右折する。正面に防衛省の電波塔を見ながら急坂を下りはじめた右側に、銀色のオブジェが見える。新宿歴史博物館だ。

新宿区立新宿歴史博物館
新宿歴史博物館前。左は防衛省の電波塔。

新宿歴史博物館は1989年に開館した新宿区立の郷土博物館で、新宿区の歴史・文化に関わる資料を収集・保管し、古代から近現代までの新宿の移り変わりが分かる常設展示があり、特別展も開催している。

常設展示の内容は 新宿区立新宿歴史博物館TOPページ > 新宿の歴史 常設展示室 > 常設展示のご案内 にあり、このページでは常設展示解説シートをダウンロードできる。

館の入口のところには、堀に架橋して甲州街道を直進させる工事が完成した1913 (大正2) 年当時から1991(平成3)年まで使われていた、四谷駅を跨ぐ四谷見附橋の高欄の一部が屋外展示されている。

開館・公開時間・料金

開館時間:9:30~17:30(入館は17:00まで)
休 館 日:第2・4月曜日 (祝日の場合は翌日)、全館燻蒸作業日 (12月)、12月29日~1月3日
観 覧 料:常設展示一般300円、小・中学生150円(団体20な以上はそれぞれ半額)、特別展はその都度定める

新宿区立新宿歴史博物館TOPページ > 利用案内 より

(6) 「お江戸の箱根」と言われた荒木町の迷路

津の守坂通りから荒木町へ
あまりに急なので、ルートから外した荒木町の階段

新宿歴史博物館からは元来た道を三栄公園まで戻り、三栄通りを西にすすむとすぐ、津の守坂通りに突き当たる。
江戸時代、荒木町には美濃国高須藩主・松平義行の上屋敷があった。義行の職位が「摂津守 (せっつのかみ)」であったことから、荒木町に接するこの通りは「津の守坂通り」と呼ばれている。

突き当りの信号で津の守坂通りを横断して南に向かうとすぐあるビルの脇に、一見、行き止まりに見える小道がある。行き止まりに見えるT字路に下りるところが階段になっている。
このT字路を、右に曲がって寄り道してみる。この道も、その先は行き止まりのように見えるが、その角の左側を覗くと、写真の急階段が奈落に向かっておちるようだ。この急階段の途中にも、カフェがある。

急傾斜にひるんで階段を下ることをやめ、元の道に戻って道なりに細い路地を行くと、両側に数軒の小料理屋が見えてくる。その先に、人通りが見える。

車力門通り
車力門通り:このあたりに昔「見番」があった。

ひょっこり出てきた車力門通りは、昼間でも夜の賑やかさが漂っている、荒木町商店街のメインストリートだ。

江戸時代、松平家の屋敷内には水が湧き、大きな池や滝のある池泉回遊式庭園があった。徳川家康が鷹狩りの帰りに、この泉の水で馬の策(むち)を洗ったことから、この池は「策(むち)の池」と呼ばれた。
現在は滝もなく、残っている「策の池」は、当時の数分の1の面積だ。下の地図で黒くなっているところは崖で、往時の策の池は、地図上部の黒い部分だったと思われる。
明治5年7月の政令によって荒木町が誕生し、池の周囲は景勝地として一般に開放され、池の周りには池見の茶屋が出来、やがて芸者が行き交う花街として発展した。1945年の米軍の空襲による壊滅を乗り越えて復興を遂げたものの、1983年に花柳界が消滅し、バブル崩壊 (1991-93年)、1997年のフジテレビお台場移転で、一時は衰退するに至った。
その後、現在の賑わう荒木町の飲食店街へと復活した裏話は、Tadaima Japan Top > 東京 > <四谷荒木町・今昔散歩 ~荒木町の重鎮が語るとっておき秘話~ ③地形が街を再生させた (残念ながら、リンクが消えてしまいました) に詳しい。「四谷荒木町商店会」ホームページ は、荒木町の飲食店を紹介している。

今回のルート図。地図で黒い部分は、切り立った崖。出典:国土地理院「地理院地図Vector」で、標準地図に陰影起伏図を重ねた。
金丸稲荷神社⇒荒木町奥の細道
荒木町奥の細道

車力門通りの坂を下り、クランク状に折れ曲がるところに、新宿区立荒木公園に接し、提灯でにぎやかに飾られた金丸稲荷神社がある。
神社は、天和3 (1683) 年に松平摂津守がこの地一帯を拝領して上屋敷としたとき、藩主の守護神として建立奉斎されたとのことである。
境内の「金丸稲荷神社由来」碑によると、御祭神の宇迦能御魂大神は、「和合、繁栄、財宝、出世、安全、又火伏せの神として崇められ、古くは度重なる江戸の大火にも、尚大正十二年の関東大震災にもその災禍を免がれたりと伝えらる。
昭和二十年五月二十四日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土と化し去ったが、町民には一人の死者もなかった事は、これ偏えに大神の霊験あらたかなる由と推察される」とある。

金丸稲荷神社の入口は、「とんかつ鈴新」と荒木公園との間の細い路地に面している。この細い路地は「荒木町 奥の細道」と名づけられ、蹴上りが短く踏み面が幅広で長い石畳の階段となって、津の守弁財天・策の池まで下っていく。

津の守弁財天・策(むち)の池⇒車大門通り⇒柳新道通り
策の池。左に弁財天が祀られた祠がある。

石畳の階段を下りてくると、なんとも不思議でシュールな景色が広がる。
都心の繁華街の真ん中ながら、池がある。立ち入り禁止にはなっているが、暑い日にその池で遊ぶ小さい子がいる。
周囲に崖が迫り、急な階段が何本も降りてくる、摺り鉢の地形だ。昔、この崖から滝が落ちて、水しぶきが舞っていたのだろう。
池の端には弁財天を祀った津の守弁財天がある。
この池の畔に料理屋が出来、それが花街へとつながっていった。
四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道 > ㊲荒木公園あたりには津の守花柳界 に、荒木町が花街となっていった歴史が記されている。

策の池を回り込むと、右側が高い崖になっている急な階段が伸びている。その高い崖を登り返す狭くて急な階段が、頭上で途切れている。かつては、この崖の上にあった家に上り降りしていたのだろう。廃墟のようなこの光景は、もうすぐ見られなくなるにちがいない。一帯は、再開発が急激に進んでいるようだ。

正面の急階段を上りきると、再び、車大門通りに出てきた。
飲食店がつづく車大門通りを南に向かって、緩い坂を上っていくと、荒木公園に戻ってくる。
公園の前で車大門通りから、狭い細い路地に入ってみる。荒木町は、坂が多く、階段も多く、そして、狭い路地も多い街だ。
路地はすぐに、柳新道通りにぶつかる。バーや居酒屋がある裏道っぽい通りは、行き止まりのようになる。
が、狭い狭い路地が、右に、左につながっている。
右に行くと、杉大門通りに出る。

杉大門通り
杉大門通り:全勝寺方向

荒木町の細い路地を抜け出てきた杉大門通りは、舟町との境界線上にある道だ。
真北には、外苑東通りとの信号の先に全勝寺がある。杉大門通りは全勝寺の門前町として栄えていた。
江戸時代、全勝寺のあたりは杉林で、杉材の産地だった。この杉の若木の皮を剥いで「四谷丸太」として出荷したり、舟坂をつくる杉材を伐り出したので、「舟町」となった。
明治時代、24年まで全勝寺を教場にして、貧しい家庭の児童たちを対象とした共立友信学校が開かれていたことは前述した。

杉大門通りのホームページ 「杉大門通り商店街人気会――くつろぎと憩いの街にようこそ!」によると、この通りは昭和33年ごろは「肉屋、八百屋等なんでも2軒ずつあるような商店街だった。オリンピックの頃、六本木などのお店では11時までしか開いておらずそれ以降の時間に遊びたいというお客さんが杉大門に流れてきた。昭和40年代頃、物品販売の商店街から大人の落ち着いた飲み屋街と変化」してきたそうだ。

新宿通りに出て、四谷三丁目交差点を渡る。この交差点は、信濃町駅を出発して信号・左門町まで歩いてきた外苑東通りの延長と新宿通りが交差している。交差点手前には東京メトロ丸ノ内線・四谷三丁目駅の地下改札口に降りる入口がある。

消防博物館 (東京メトロ丸ノ内線・四谷三丁目駅)
四谷三丁目交差点・消防博物館

交差点の角には、「四谷消防署」と大書された、ひときわ目立つビルが建っている。このビルに消防博物館がある。
消防博物館は、「江戸時代に描かれた絵巻や錦絵、明治・大正時代に活躍したクラシックカーなど、消防に係る多くの史料や装備を展示紹介している消防の歴史が詰まった魅力ある施設」だ。

地下1階から5階までさまざな資料や史料、実物の消防車などが展示され、10階には無料の展望室がある。5階の屋外には本物の消防ヘリコプターが置かれ、内部に入って操縦かんに触ることまでできる (もちろん、飛び立ちはしませんが)。
無料ながら、子どもも楽しめるし、見ごたえのある展示がそろっているので大人も楽しめる。







開館・公開時間・料金

開館時間:午前9時30分~午後5時
(図書資料室は水・金・日の午後1時~午後4時30分)

休 館 日:毎週月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)
(国民の祝日に当たる場合は開館し、翌日を休館とさせていただきます。また、9月1日の防災の日、10月1日の都民の日、1月17日の防災とボランティアの日についても開館いたします。)

入 館 料:無料

消防博物館ホームページ より

地下1階で、東京メトロ丸ノ内線・四谷三丁目駅の ②番出口と直結している。

参 考 資 料

[参考01] 武蔵野台地、淀橋台など、関東平野の地形形成に関する専門的な研究の紹介

武蔵野台地、淀橋台など、関東平野の地形形成に関しては、専門的な研究ですが、遠藤邦彦(日本大学名誉教授)「東京の台地部における地質断面図の再検討 ―東京層を中心にー」が、メタデータとその図像化によって分かりやすい。

[参考02] 「鮫河橋」(「鮫ケ橋」とも;明治44年5月1日に行政地名から消滅) を記録した明治期の書籍紹介

(1) 明治32(1899)年に刊行された横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫、1949年 収録;教文館発行の初版は「国会図書館デジタルコレクション」で読むことができる) は、封建制が過去のものとなり、工業が発展して自由競争の社会になって富資増殖を求める世の中になった日本の「下層」に目を向け、労働社会の生計、その住宅事情等を実地調査した緻密な報告書である。ここに明治中期ごろの四谷鮫ケ橋に住む貧しい人々の生活・仕事・家計・住居・教育の状況がリアルに描かれている (国会図書館デジタルコレクション『日本之下層社会』「コマ番号17/227」から 「コマ番号41/227」にかけて)。

(2) 明治19(1886)年から明治45(1912)年までの、新聞に掲載された著者不詳の文章や横山源之助の文章など、東京の下層社会に関する生活記録14篇を収録した『明治東京下層生活誌』(中川 清編、岩波文庫、1994年) には、四ツ谷鮫ケ橋に住む個人の境遇も具体的に記録されている。

(3) 松原岩五郎『最暗黒の東京』(講談社学術文庫、2015年;初版は明治26 [1893] 年、民友社) は読み物風のタッチだが、下層の人々を描く目は優しい。たとえば、ひびが入ったり、つぎはぎだらけだったりの彼らの家具、什器について、こう書く。

世人はこれを見てその事欠 (ことかけ) のはなはだしさを笑い、あるいはことさらに彼らが狂言じみたる生活に甘んずるものと思為 (しい) して嘲笑する者なきにあらず。しかれども思え、彼ら本来何を苦しんでかかる狂言じみたる真似をなすものならん。知らずや彼らの生活はスベテ「欠乏」といえる文字をもって代表され居るものなるを。……彼らのみぐるしき不器用品、たとえ蝙蝠 [蝙蝠傘=洋傘] の幌 (きれ) を剥して作りたる布団夜着の類といえども、その一旦必用に迫って製作するの心計惨憺に至っては、けっしてかの古昔 (こせき) の名匠大家 [ミカエルアンジロまたは甚五郎左匠] 等が経営せし図案に異なるなければなり。

『最暗黒の東京』講談社学術文庫、pp.26-27 より。(国会図書館デジタルコレクション『最暗黒之東京』「コマ番号13-14/88」)

国民新聞の記者・松原は、下層の人が生活する場にみずからも身を置き社会探訪をしようと、浅草の「土方部屋」を訪ねるが断られてしまう。そして四ツ谷鮫ケ橋にやってきて親方株の清水屋弥兵衛に頼みこんだところ、「残飯屋」へ周旋してもらい、数日住み込んで内側から住民たちの生活を記録する (同書 講談社学術文庫、pp.32-54)。

(4) 高野 岩三郎[山本潔訳・解題]「東京における“イースト・ロンドン”」(『大原社会問題研究所雑誌』№645/2012.7、法政大学大原社会問題研究所) は、当時、帝国大学法科大学政治学科第二学年生だった高野岩三郎が、学友の落合謙太郎と共同で行った鮫ケ橋・谷町ほか2か所の調査報告で、必需品の状態、仕事についてだけでなく、心的状況についても調査し、子供の教育にも目を向けている。
原論文(英文)は明治27 (1894) 年に発表された。高野はその後、統計学を学び東大教授となったが、1920年に大原社会問題研究所の創立に参加し所長となり、日本最初の労働者家計調査を実施した。戦後、憲法研究会を設立して「憲法草案要綱」発表した。

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