階段と怪談がある街・四谷界隈を歩く (511)―6.5 km

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(3) 江戸初期に城内から移転した「寺町」をゆく

円通寺坂、法蔵寺坂、東福院坂
日宗寺の日蓮立像
日宗寺の日蓮立像

日宗寺は日蓮宗のお寺。本堂の前に建っている日蓮上人の立像が、訪れる人を迎えいれる。
日宗寺の前の坂は北に登り、坂の頂上は新宿通り。新宿通りを渡ると、津の守坂通りがさらに北へと延びている。
今回は訪問しなかったが、日宗寺の坂上には、円通寺祥山寺法蔵寺(浄土宗)がある。
三重大学人文学部・山田雄司教授によれば、祥山寺は「伊賀者の菩提寺で、境内にある地蔵は忍者地蔵と呼ばれ、伊賀者を供養するために建立された」(伊賀ポータルHOME > 第36回 忍者百人衆その2‒四谷‒) とのこと。
円通寺のあたりは 「円通寺坂」 で、法蔵寺の前は「法蔵寺坂」といい、あるいは「法蔵寺横丁」という地名がつけられていた。

かつて桜川(鮫川)が、日宗寺あたりにあった湧水源から南元町公園(鮫河橋跡)に向かって急な流れをつくり、その湾曲した跡が、いま登ってきた坂になっているようだ。
鮫川/桜川の概要と地図 (2006年01月17日)」(blog 「東京の水 2005 Revisited」) によると、「桜川/鮫川は現四谷三丁目にある「鮫河谷」に流れを発し、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れをあわせ、赤坂離宮の中を東に進みます。離宮内の渓谷の水をあわせた川は赤坂見附で平地に出ます。ここではもともとは紀尾井町の「清水谷」からの水流をあわせていたようです」とある。
桜川の上流部は「鮫川」とも呼ばれていた。桜川は、「江戸時代に入り日比谷入江が埋め立てられ、また外濠の整備が進められると同時に、人工の流路へと付け替えられ」て、現在は暗渠化されている (「桜川 (港区)」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

これから、旧鮫川の川筋に沿った坂を下っていこう。
このあたりには、寺が「密集」している。寛永11年、江戸城西北に外堀を設置することになり、麹町にあった寺社群がこのあたりに移転してきたのだ。

日宗寺の斜め下にある真宗大谷派の真英寺には、急な階段を上っていく。本堂に参拝し、後ろを振り向くと、須賀神社が、谷をはさんだ目の高さに見える。南西側がひらけていて、眺めがいい。
もときた十字路に戻り、須賀神社・男坂から下ってくる道を、こんどは反対方向に、東福院坂(天王坂)を上る。坂の左側にある新義真言宗の東福院(御府内八十八ヶ所霊場第21番)が、この坂の名前の由来だ。都市型の新しい仏壇式納骨壇を併設している。

坂の右側にある愛染院に寄る。

『群書類従』(670冊) を編纂した塙保己一の墓

塙保己一(はなわ・ほきいち)の墓は、新義真言宗の愛染院(御府内八十八ヶ所霊場第18番)にある。

『群書類従』の編者として名高い江戸時代中期の国学者 塙保己一は、延享3年(1746)に武蔵野国玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。(中略)
5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校(けんぎょう)須賀一の門下となり、その本姓 塙をもらった。
優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
天明3年(1783)に検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけたが、寛政5年(1793)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
文政2年(1819)に『群書類従』を完成させ、同4年には惣検校となったが、同年9月に『続群書類従』の編纂なかばで没した。享年76歳であった。(後略)

――新宿区教育委員会の案内板による
東福院坂の勾配

愛染院には、甲州街道の宿場「内藤新宿」の開設を幕府に許可され、問屋・本陣を経営した高松喜六の墓もある。
当時、江戸日本橋から甲州街道を発った最初の宿場は、約16km離れた高井戸宿で不便だった。そこで高松は同志4人と開設の前年、元禄10(1679)年に、内藤家下屋敷の一部に宿場を開設する請願を幕府に提出していた。

愛染院の駐車場から、東福院坂を下るかなり年配の女性、逆に、手押し車を押しながら坂を上る宅配便の男性、自転車で坂を上ろうとして一息ついている男性らが見えた。
坂の勾配が急なので、ふたりとも、かなり難儀している様子だった。

東福院坂を戻り、十字路を左に、旧鮫川の川筋だった坂を下りていこう。

小さな祠
細い路地の突き当りにあった小さな祠

右手(南西方向)には、須賀神社につづく高台が見え、崖となっている。
細い細い路地がその崖まで一直線に伸びている。
中華料理店の横の細い路地を入ってみると、突き当りに小さな祠がある。
祠の前は空き地になっている。
このあたりは、住宅と住宅との間が狭く密集し、路地も細い。
このままでは、火事や災害のときに被害が大きいだろう。
そのため再開発事業が進められていて、空き地ができているようだ。
ある空き地に掲示されている建築計画には、地上6階建ての共同住宅を建築すると書かれていた。
数年後には、このあたりの風景は、ずいぶん変わっていそうだ。

ふたたび元の道に戻り、少し進んで、こんどは左側の観音坂を見上げる。

観音坂
観音坂

見上げる観音坂の勾配もきつい。

観音坂は、現地標識に記されている新宿区教育委員会の説明によると、「西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が「潮踏の里」と呼ばれたことにちなむ。潮踏観音は、潮の干満につれ像の台石が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれた」とある。江戸時代の前まで、このあたりまで入江がいりこんでいたことがうかがわれる。
説明にある西念寺には、観音坂からの入口はないので、後ほど、「(5) 「半蔵門」という名称の由来となった服部半蔵正成」で立ち寄ることにする。

坂の入口のすぐ左にある真成院は「四谷霊廟」とも併記され、「密門会本部」の札も掲げている。密門会とは、弘法大師の教えを拠所に、「在家の立場で正しい仏教を学び、正純密教を実践していく会」とのこと。

そのすぐ上には、真言宗豊山派の蓮乗院(御府内八十八ヶ所霊場第83番)が静かに建っている。
観音坂を折り返すと左に、「信壽院」「樂生庵」という2つの札がかかり、屋根が大きく反ったお堂があるが、門が閉じられている。

もとの道に戻り、緩い右カーブを下っていくと、右(真西方向)に、戒行寺坂がある。

戒行寺坂(油揚坂)
戒行寺坂(油揚坂)

赤いカーペットが敷かれているようにも見える戒行寺坂を上ってそのまま進むと、本性寺の前を通り、左門町の信号に突き当たる。歩きはじめに通った平坦な道だ。淀橋台から突き出た小さな台地の先端が旧鮫川の谷に落ちてくるところが、戒行寺坂の上り口にあたる。

戒行寺坂は、現地標識に記されている新宿区教育委員会の説明によると、「戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる。別名「油揚坂」ともいわれる。これは昔、坂の途中に豆腐屋があって、質の良い油揚げをつくっていたから、こう呼ばれたという」とある。

坂の途中の左側に、「浄土宗 一燈寺」と書かれた石の門柱がある。緑におおわれた通路の先に、民家のような建物があって、ひっそりとしている。坂のすぐ先には、「四谷正宗」の異名を持つ名刀工源清麿の墓がある曹洞宗 宗福寺の門がある。

西應寺 梵鐘の竜頭

坂をのぼりきった右にあるのが日蓮宗の戒行寺だ。境内には「鬼平犯科帳」のモデルとなった長谷川宣似(平蔵)の供養碑があるようだが、寄らなかった。

平坦になった道を歩くとすぐ、左側に西應寺 (真宗大谷派)。
ここには慶応2(1866) 年に幕府遊撃隊頭取となって上野戦争で活躍した剣客 榊原健吉の墓がある。
また、正徳2(1712) に鋳造された西應寺の銅造梵鐘は精巧に仕上げられていて、江戸鋳物師の鋳造技術を知る資料としても、刻まれた銘文から寺の歴史や鋳造の由来等が分かり史料としても価値が高いとのこと。鐘を吊り上げる竜頭(りゅうず)が見事だ。

西應寺から北向きの路地をはいってみる。この路地は須賀神社 男坂に通じているが、途中に、勝興寺 (曹洞宗) がある。
参道に「首の繋がる地蔵」がある。東日本大震災の際、首が落ちそうになったが、ギリギリ落ちなかっため、こう呼ばれるようになったそうだ。その奥に、子供を連れて行ってしまう神様とも言われている「乳母様」が、口を開けて座っている。

勝興寺の首の繋がる地蔵(左)と乳母様(右)

もときた戒行寺坂から通じる道に戻ると、西應寺の隣に立派な、江戸時代後期に建てられた薬医門形式の山門がある。曹洞宗 永心寺の山門だ。
その奥に享保11(1726)年建立の、北を正面とする方丈型の平面形式をもつ本堂があるが、全容は見えない。

永心寺の西側に、真南に下る坂をくだっていく。坂の入口には「闇坂 (くらやみざか)」の標識がある。闇坂は、別名、乞食坂あるいは茶の木坂ともいう。
坂の突き当りには、崖とその上に建つビルが壁になってそそり立っていて、その手前の窪地にあるのが若葉公園だ。

(4) 地域の人々の生活向上をめざした「二葉保育園」の120年

谷地にぽっかり開いた若葉公園
若葉公園(西方向を見ている。左の高台には聖教新聞本社ビル)

住宅とビルの谷間の空間、谷戸にある若葉公園が開園したのは昭和10年4月29日。現在、この公園には、強い降雨時に雨水を園内に貯留し、地下浸透させて水害を防止する雨水貯留・浸透施設が設置されている。降雨時、周囲の高台からの雨水がここに流れ込んでくるのだろう。
園内には滑り台などの遊具と、浅い人工せせらぎがある。むかしはこのあたりが水源となり、旧鮫川の支流が流れていたそうだ。かつての支流の流路らしきところを歩いてみる。

住宅がくっつきあって密集している。そのあいだに、人がすれちがうのも困難な細い路地が迷路のように通っている。数戸の住宅があったであろう区画に、新しい集合住宅が出来ている。
車の通る道路に出る。この道は、左は旧鮫川の川筋の道に合流し、右へいくと、左右に聖教新聞社新館や創価学会関連の重要施設が集まっている一帯を通り、外苑東通りに突き当たる道だ。
この車道を横断し、細い路地にはいる。右側は戸建てが1戸ずつ連なっていて、その住宅の奥は崖が迫り、その上にはマンションなどの中層のビルが建っている。かつて流路だったことを思わせるゆるいカーブを描く細い通路が直線にさしかかるあたりで、左へ細い路地を曲がると、旧鮫川の川筋の道に出る。

江戸時代は武家屋敷や町屋だった若葉二丁目、三丁目

このあたりは、JR信濃町駅に近く、交通が便利なところなのに、バブル時代に地上げが進まなかったようだ。
いまは、数戸分を壊して更地になった空き地やビルが、密集する住宅のあいだに点在している。
土地の権利関係が複雑で、なかなか再開発がすすまないのだろう。
新宿区文化観光産業部文化観光課の「温故知しん!じゅく散歩  新宿文化観光資源案内サイト」のなかに、「若葉三丁目遺跡」発掘の第1次調査 (2008年)第3次調査(2014年)が掲載されており、このあたりの近世の様子をうかがい知ることができる。

若葉三丁目遺跡は若葉二丁目、若葉三丁目の一帯に広がる江戸時代の武家屋敷、町屋の遺跡である。この付近は、江戸時代には鮫ヶ橋と呼ばれ、元和年間(1615~1624)には新田開発が行われるが、寛永13(1636)年の外堀の開削で盛土され、明暦年中(1655~1658)頃には百姓町屋が成立する。寛文4(1664)年には伊賀者給地となり、その後拝領町屋となる。

――若葉三丁目遺跡3次調査
景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編「〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」(尾張屋清七、嘉永2-文久2 [1849-1862] 刊;国会図書館デジタルコレクション、書誌ID [国立国会図書館オンラインへのリンク] 000007431699 より)

江戸時代のはじめ、幕府は谷間の湿地帯だったこのあたりの新田開発を行い、その後、江戸城外堀を開削したときの残土で盛り土した土地を下級幕臣である伊賀者に給付(「〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図」参照)したが、下級幕臣に与えられる扶持米では彼らは生活を維持できない。そこで、下級幕臣たちは拝領した土地に長屋を建てて町方の者を居住させて賃貸料を取ること(町家作)を、幕府に願い出た。幕府は、この「拝領町屋」を認めざるをえず、このあたりが不在拝領地になったということらしい。伊賀流忍者観光推進協議会 伊賀忍者オフィシャルサイト > 忍者データベース > 地域 > その他 > 伊賀組 も参考に。

幕府が倒れると、大家だった下級幕臣の伊賀者の力もなくなったと想像される。そうなると、新しい大家はだれになったのか。ここに賃借していた人たちはどうなったのだろう。
明治になって関所が廃止されて自由に移動できるようになり、古い身分制度が廃止された。
廃藩置県が行われた明治4 (1871) 年頃の東京府の人口は約67万人。
「殖産興業」をスローガンに近代化にまい進し、明治20年代後半には「産業革命」を迎え、紡績製糸業で急速な機械化がすすみ、炭田や銅山が開発された。こうして東京の人口は、明治17 (1884) 年に約80万人、20 (1887) 年に150万人、31 (1898) 年に200万人を超える。
この地域に住んでいた人々は流動化して各地に移動し、逆に、新しい産業構造への変化で生まれる社会の底辺の人々が集まってきたことは推測できる。このころ相次いで発表された、この地域の社会調査をまとめた書籍(文末の[参考02])を読むと、こうしたことがうかがえる。都市化が生み出すスラムだ。
資本主義の発展とともに地価が上昇して、東京各所にあったスラムは周辺に移動していく。大正12(1923)年9月1日に起きた死者10万人といわれる関東大震災は、各地のスラムにも壊滅的な被害を与えた。これは推測だが、旧鮫川を新田に開発し、さらに江戸城外堀掘削で出た土を運んで盛土した伊賀者拝領地だったところは、揺れ方も烈しく、受けた打撃も大きかったのではないだろうか。

ところで、スラムの中から抜け出すには、子どもの教育がなにより大事だと思う。そう考え、行動した人たちがいる。

二葉保育園

旧鮫川の川筋の道を南に下っていく。両側が崖で、道と崖のあいだには住宅が密集している。
立派な蔵をもつ家もある。
その先には、虹色のロゴマークと「International Montessori Mirai Kindergarten」の文字が掲げられた新しいビルがある。

このビルの斜め向かいに、保育園のビルがある。

創立120周年 社会福祉法人 二葉保育園
すべての子どもが愛され、健康に育つことを願って歩み続けます

と大きな文字で書かれた垂れ幕が屋上から下がっている。
二葉保育園のホームページからその歴史の一部を、抜粋する。(お時間があれば、ぜひ、「120年の歩み」全文をご一読ください。)

 華族女学校付属幼稚園で勤務していた野口幽香、森島 峰(美根)は、麹町から出勤する途中で貧民の子どもたちが道路で遊んでいるのを見て、華族女学校付属幼稚園の子どもたちだけでなく、この子どもたちにも同じようにフレーベルによる教育を与えたいと語り合った。
……
 1900年(明治33)に麹町の借家からスタートした二葉幼稚園
……
 創立者は麹町に開設した直後から、更に貧民の多い四谷方面に移転したいと望んでいた。そこへ四百坪の御料地借用が許され、「貧民のすぐ隣、思うままに入園させられる喜び」を語っている。
……
 鮫河橋は明治時代の東京の三大貧民窟の一つであった。鮫河橋に関する文献は数多くあり、横山源之助、その他の明治のルポライターも、鮫河橋の地域の悲惨さを記述しているが、創立者の記述からは、人間味あふれる人々の生活を感じさせられる。貧民幼稚園の内容は麹町時代の継続であるが、「時間からすると孤児院のようでもあり、よく遊ばせると言う点からすると幼稚園」とその性格を述べている。
 鮫河橋の建物には風呂場、治療室も設置し、親の会、卒園生の会の他、バザー、二葉文庫、日曜学校へと活動を広げて行った。親の会では子どもたちの弁当作り、禁酒など様々なテーマを取り上げ、著名な活動家を講師として招聘し、親への充実した働きかけを行った。
 その結果不況下で欠食児童が問題となっていた時も、二葉幼稚園児たちは弁当を持ってきていた。また子どもたちの小学校への就学援助も熱心に行い、15日(奉公日)は卒園生の会を開催し、小学校を卒業出来るよう励ましていた。子どもたちは小学校を卒業すると地域の工場労働者となることが出来、その結果不安定就労から抜け出し家族の経済もうるおうことになった。保育のみならず治療、バザー、などの地域活動は次第に「地域社会の向上」に幅広く実りとして確認できるようになっていた。
……
終戦後旭町分園から事業を再開し、1948年(昭和23)の児童福祉法施行により元鮫河橋(南元町)に乳児院、南元町保育園を開設、大正期より少年少女のキャンプ地であった調布上石原に養護施設及び母子寮を開設した。その後旭町の保育園は国領に移転し、現在は四谷に乳児院、保育園、調布に児童養護施設、国領に保育園を開設している。

「120年の歩み」(社会福祉法人 二葉保育園ホームページ) より
三銭学校

二葉幼稚園の活動が始まる前に、子どもたちの教育に目を向ける人たちがいた。明治10年に始められた「三銭学校」である。

当寺 [祥山寺] は新宿区文化財、三銭学校の跡なりとの掲示板が地蔵尊の傍らにある。三銭学校のことは、明治10年当時、笹寺長善寺住職、永住町理性寺住職等が発起人となり、四谷区内50ヶ寺の住職と協議し、基金500円余で四谷三宝義和団というのを設立して、鮫ヶ橋安珍坂下の妙行寺を校舎にして共立友信学校と名づけ、その当時の祥山寺住職小島栄年が、当時有名な鮫ヶ橋貧民窟の児童に教科書や筆墨の類まで給して教えた。そこが狭くなり舟町全勝寺に教場を移したが、基金を使い果たしたので、なお追加したがそれも続かず明治24年8月遂に廃校となった。
その後小島住職に貧童父兄から学校継続の懇願頻りであったため、小島住職は区内有志に頼み、毎日3銭宛の寄付を仰いで、この祥山寺境内に学校を開いた。これが三銭学校の由来である。校舎は間口2間に奥行5間、1ヶ月6円の経費がかかった。学童は常に40-50名居た。明治34年頃まであったが (以上新宿区文化財による)、明治36年9月、鮫ヶ橋尋常小学校が東京市において経営され、理髪所まである特殊学校を開いたので三銭学校の必要はなくなった。(四谷南寺町界隈より)

猫の足あと > 新宿区の寺社 > 新宿区の寺院 > 祥山寺 より孫引き
子育地蔵尊・鮫ヶ橋せきとめ稲荷

東福院坂標識からは緩い下り坂だった二葉保育園前の道は、隣接している二葉乳児院、その向かいの学習院初等科体育館の非常口(?)門を過ぎ、出羽坂を右に見たところで、JR中央線・総武線のガードと、並行している首都高速4号線の高架下をくぐるあたりでは勾配がなくなっている。
くぐるとすぐ先の左側にみなみもと町公園があり、小さな祠のようなものが見える。子育地蔵尊と、その隣の「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」だ。

鮫ヶ橋せきとめ稲荷

このあたりで鮫川(桜川)は千日谷からの流れを合わせ赤坂御所内に入り、赤坂見附から虎ノ門付近で日比谷入江に通じていたようだ。
鮫河橋は、『江戸名所図会』巻次九 (斎藤長秋 編/長谷川雪旦 画、東京・博文館)「鮫河橋 (さめがばし)」の項(国会図書館デジタルコレクション [コマ番号10/46])に、挿絵とともに、下記のように記されている。

『江戸名所図会』巻次九「鮫河橋」

「紀州公御中館の後 (うしろ)、西南の方、坂の下を流るる小溝に架(わた)すをいう。今このへんの惣名(そうみょう)となれり。里諺(りげん)に、昔この地、海につづきたりしかば、鮫のあがりしゆえに名とすといえども、証とするにたらず。ある人いわく、天和二(1682)年公家の御記録に、上一木村(かみひとつぎむら)鮫が橋とありと云々。然る時はこのあたりも一木の内なりとおぼし。また、佐目河に作る。千駄ヶ谷寂光寺鐘の銘に鮫が村ともあり。
 鳥の跡
 淋しさや 友なしちどり 声せずば何に心を なぐさめ  はし 
  茂睡」

「四谷鮫河橋地名発祥之所」碑が鮫ヶ橋せきとめ稲荷内にあるが、江戸時代後期、『江戸名所図会』のころの橋は、挿絵に描かれているように、現在の赤坂御用地鮫が橋門の内側付近にあったようだ。

ちょっと寄り道だが、千日谷から下ってくる道を覗いておこう。せきとめ稲荷の前を西に行き、外苑レジデンスをまわりこんで外苑東通りを東に戻る。赤坂御所に沿った広い道路だ。警護の人が立っている赤坂御用地鮫が橋門を見て、信号を渡り、みなみもと町公園で一休み。
なお、外苑レジデンスが建っている一角は、南元町遺跡3次調査で「僅かな範囲ではあるが、道の両側に排水溝を備えた幅2間の道路が16回もの改修を経て4m近く嵩上げされた様子」が確認できたとある。

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