等々力渓谷と古墳群を満喫:等々力駅から自由が丘駅(093) -11km

コースの特徴
紅葉や黄葉が楽しめ、古代の人々の生活が想像できる、変化に富んだコース。
夏は渓流や木陰が涼しく、秋が深まり冬にさしかかるころ、等々力渓谷、日本庭園等々力、多摩川台公園、宝来公園、九品山浄真寺では、素晴らしい紅葉や黄葉が楽しめる11キロメートルのコースです。等々力渓谷は、東京23区内で唯一の渓谷です。
国分寺崖線の高台の、海と川に近く、魚介類も豊富だったこの地は、多くの古代人が生活していました。そのなかでも海に近い岬にあった古墳の上に、いまは多摩川浅間神社が建っています。紀元4世紀ごろから多摩川に沿って暮らし、前方後円墳など多くの古墳を残していた古代の人々も、紅葉を眺めていたのでしょうか? 多摩川の上流には、狛江古墳群があります(⇒ 狛江・古墳めぐり(200))。
東急大井町線・等々力駅―等々力渓谷―野毛大塚古墳―等々力渓谷横穴古墳―等々力不動尊―日本庭園等々力―多摩堤―多摩川浅間神社―多摩川台公園 (湿生植物園―亀甲山古墳―古墳展示室―1号~7号古墳―虹橋―宝莱山古墳)―宝来公園―田園調布の銀杏並木・住宅街―玉川浄水池―ぽかぽか広場―九品山浄真寺―東急東横線・自由が丘駅
渓谷や川と、台地や古墳群を歩きますので、標高差10メートルちょっとではありますが、階段での上り下りがあります。
多摩川沿いに歩く2キロメートル強の区間は、正直、単調な歩きです。バスに乗ってショートカットできます。
解散の自由が丘は、スイーツの街として売り出し中です。疲れた体を甘いもので癒してお帰りになられるのも、おすすめします。
コースの写真はコチラをクリック ⇒ 「093-等々力渓谷と古墳群を満喫:等々力駅から自由が丘駅」
コース地図をご覧ください。
コース距離です。*カッコの数字は、コース地図の番号に対応しています。
ポイント | 区間距離 | 累計距離 |
(01) 等々力駅 | ||
(05) 野毛大塚古墳 | 963m | 963m |
(08) 等々力不動尊 | 823m | 1,786m |
(09) 日本庭園等々力出口 | 705m | 2,491m |
(11) 多摩堤通り土手下(バス停・玉堤小学校(A)) | 710m | 3,201m |
(12) 多摩川河原の道 | 2,000m | 5,201m |
(14) 丸子橋手前(バス停・多摩川駅(B)) | 681m | 5,882m |
(16) 多摩浅間神社参拝 | 124m | 6,006m |
(19) 多摩川台公園あじさい園 | 341m | 6,347m |
(23) 古墳展示室 | 348m | 6,695m |
(27) 宝莱山古墳を下りたところ | 650m | 7,345m |
(28) 宝来公園出口 | 358m | 7,703m |
(31) ぽかぽか広場 | 1,500m | 9,203m |
(34) 九品山浄真寺参道入口 | 688m | 9,891m |
(37) 九品山浄真寺出口 | 660m | 10,551m |
(38) 自由が丘駅 | 746m | 11,297m |
《ハーフコース》「玉堤小学校(A)⇒多摩川駅(B)」を東急バス(玉11)・多摩川駅行きに乗車すると、歩く距離が2,681m短縮します。
コースの説明 *カッコの数字は、コース地図の番号に対応しています。
(02) 等々力渓谷
等々力渓谷は、「国分寺崖線の最南端に位置する約1キロメートルの都区内唯一の渓谷である。矢沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10メートルある。・・・渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる」 (東京都教育委員会の現地案内板)。
(05) 野毛大塚古墳
玉川野毛町公園のなかにある野毛大塚古墳は、「全長82メートル、後円部の高さ10メートルの帆立貝式の前方後円墳で、・・・墳丘の周囲には馬蹄形の周壕が掘られており、周壕を含めた全長は104メートルである。3段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。後円部頂上には4基の埋葬施設があり・・・野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する5世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類・・・は、この古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している」 (東京都教育委員会の現地案内板)。また、世田谷区公式ホームページ > くらしのガイド > 楽しむ・学ぶ > 文化財 > 東京都指定史跡 野毛大塚古墳 をご覧ください。なお、等々力渓谷を上ったところと玉川野毛町公園のあいだの広い敷地に国家公務員宿舎がありましたが、いまは取り壊されていて、平成35年度を目標に、公園として整備されるそうです。
(06) 等々力渓谷横穴古墳群
「等々力渓谷の周辺では野毛大塚、御岳山 (みたけさん)、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々力渓谷横穴古墳群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道(せんどう)で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには土器が供えられたり、火を焚いた跡があり、墓前祭が行われたことがわかります」 (世田谷区教育委員会の現地案内板)。
(08) 等々力不動尊明王院
等々力渓谷を歩いていくと、手を合わせた稚児大師の像(作・清水多嘉示 1897~1981年=戦後の具象彫刻をリードした1人で、1965年日本芸術院会員、1980年文化功労者)があらわれ、そこからは滝や、途中に祠などがある急な階段に差し掛かると、冷気と霊気がただよう雰囲気になってきます。ここ等々力不動尊明王院は、等々力満願寺の別院です。今から800年前、ある夜、夢のなかで、「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた興教大師(新義真言宗の始祖、和歌山・根来寺を開山)は、不動尊を背負って調布の丘をめぐり、渓谷のこの場所に来たところ滝があって、ここがお告げの霊地と悟り、不動尊を安置したとのことです。境内にはイロハモミジの樹が枝を広げ、ソメイヨシノの樹も見られ、紅葉の時期、お花見の時期には、彩り豊かな光景が期待できます。境内への急な階段の登り口脇には、「雪月花」というお休み処があります。
ところで、「調布の丘」って、どこなんでしょう?
(09) 等々力渓谷日本庭園
無料開放されている等々力渓谷日本庭園の高台部分には、周囲が空までひらけた芝生広場、書院建物があって、休憩することができます。斜面にある庭園は、昭和初期に出現した「雑木の庭」の創始者として知られる飯田十基(1890~1977年)が作庭しました。池、流れ、石畳の階段園路、竹林が美しく、時間と空間の小旅行をしてきた気分になります。ツツジの時期もきれいです。(開園時間は、3月~10月が午前9時~午後5時、11月~2月が午前9時~午後4時30分で、休園は12月29日~1月3日)
(11)~(14) 多摩川河原に沿って
多摩堤を乗りこえた多摩川河原の砂利道の右手には、公園やグラウンドがえんえんと続いています。巨人軍グラウンドも、かつてここにありました。晴れていれば振り返ると富士山が見え、歩く前方には開発が著しい武蔵小杉駅周辺のビル群がだんだん近づいてきます。グラウンドに付属して臨時トイレが、随所にあります。多摩川の堰・調布取水堰を過ぎ、東急・東横線と目黒線が並行して通る鉄橋をくぐると、左手に多摩川浅間神社が見えてきます。国道246号線が多摩川を越える丸子橋の手前まで、この間、約2.7キロメートルあります。景色を眺めながらのんびり歩くのもよし、野球をしている若者たちの姿を眺めながら歩くのもよし、速足で歩いてみるのもよし。たいへんだなーと思われたかたは、東急バスに乗って歩くのを省略することもできます。
(16) 多摩川浅間神社
ホームページにある由緒によると、
浅間神社は、今から800年前の創建と伝えられます。
鎌倉時代の文治年間 (1185~90年)、右大将源頼朝は、豊島郡滝野川松崎に出陣しました。
夫の身を案じた妻政子は、後を追ってここまでまで来ましたが、わらじの傷が痛み出し、やむなく多摩川畔で傷の治療をすることになりました。
逗留のつれづれに亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山がじつに鮮やかに見えました。富士吉田には、自分の守り本尊である「浅間神社」があります。
政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。
村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
とのことです。社殿は、全長60メートルと推定される「浅間神社古墳」の上に建てられています。
境内からは遠くまで見渡すことができ、多摩川や武蔵小杉の街、その向こうの富士山、丹沢や箱根の山々は、絶景です。
(17) 多摩川駅
付近に商店も少ない小さな駅ですが、東京急行の東横線/多摩川線/目黒線が交わっています。
(18)~(27) 多摩川台公園
多摩川台公園は、多摩川に沿って北西から南東に向かって舌状に広がる台地上にあり、武蔵野台地の南端部、国分寺崖線に位置しています。多摩川との高度差は10メートルぐらいですが、多摩川方面にはさえぎるものがなく、手前に武蔵小杉の新しいビル群、遠くには丹沢や箱根の山並みの向こうに端麗な富士山の姿を見ることができます。園内には、自然林の道、2基の大きな前方後円墳と8基の古墳、展望広場、大正時代から昭和時代まで東京に上水を供給していた「調布浄水場」の沈殿池跡につくられた水生植物園、ろ過池跡にある四季の野草園、あじさい園 (約3,000本)、ホタルブクロ、シバザクラなど山野草のみち、300本のサクラ、ウメ、イチョウ、のんびりできる広場があって、四季折々、楽しめます。
古墳展示室
公園の管理事務所には「古墳展示室」が併設されていています。ここには、昭和初期に54基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の古墳分布を示すパノラマ地図や公園内の古墳からの出土品が展示され、実物大で再現した古墳の模型などがあります。入場無料で、月曜・年末年始休館 (開館時間は午前9時から午後4時30分)。猛暑の日に訪れたところ、無料の休憩室もあって、生き返りました。
亀甲山古墳
前方後円墳の亀甲山古墳(かめのこやまこふん)は荏原台古墳群で最大の古墳で、1928年(昭和3年)に国の史跡に指定されました。4世紀後半から5世紀前半ころの築造で、当時この地方に勢力があった首長の墓と考えられています。全長107メートル、前方部の長さ41メートル、後円部の直径48メートル、高さ10メートルの大きな古墳です。周りには柵があって、立ち入ることはできません。
宝莱山古墳
多摩川台公園の北東の端にある宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)は標高37.5メートルのところにあって、4世紀に築造された全長約97メートルの前方後円墳です。宝莱山古墳は、頂部まで登ることができます。
多摩川台古墳群
この2基の大型古墳にはさまれた多摩川台古墳群は、最初に2号墳が6世紀前半に築造され、2号墳を前方部として利用し、1号墳を後円部とする1基の前方後円墳(全長39メートル)が6世紀後半に築造され、さらに3号墳から8号墳までの円墳(直径13~19メートル)が7世紀中ごろまで継続して築造されたそうです。
(28) 宝来公園
宝来公園は1925(大正14)年、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために「田園調布会」が街の一角の潮見台の地を広場としたことがはじまりです。園内にはウメ、サクラ、ツバキ、サザンカ、クヌギ、シイなど約70種1500本の花や樹木があり、池には300本のキショウブが群生していて、武蔵野の面影をしのばせるステキな公園です。現在は、大田区立の公園になっています。
(29) 田園調布駅
1889(明治22)年、荏原郡の鵜ノ木村、嶺村、上沼部村、下沼部村が合併して「調布村」が生まれ、この地域に、実業家・渋沢栄一らによって設立された <理想的な住宅地「田園都市」の開発> を目的とする「田園都市株式会社」が、1923(大正12)年に「田園都市多摩川台」として分譲を始め、田園調布が開発されたそうです。同年、開通した目黒蒲田電鉄・目黒線の駅として開業した「調布駅」は、1926年、「田園」がついた「田園調布駅」に改称されました。
「調布の丘」の「調布」とは、京王線・調布駅(東京都調布市)周辺のことかと思っていたのですが、それにしては調布の丘の範囲はずいぶん広く、等々力渓谷まで丘がつづいていたということは、不思議でした。それに対して、田園調布の前身・「調布村」が「調布の丘」だとすれば、等々力渓谷から近く、合点がいきました。
でも、待てよ! 4村が合併して「調布村」が生まれたのは1889年です。ふつうに考えると、合併して新しく生まれる村の名称は、そのなかでいちばん繁栄している村の名前(あるいはそのバリエーション)か、4村の頭文字などを合成した名称にするかと思うのですが、あえて4村とは関係ない「調布村」としたのには、どんな理由があったのでしょう?
ちなみに、東京都調布市の前身が「調布町」という地名になったのも、8村が合併した1889年のことです。この8村のなかにも、「調布」がつく村はありません。
大昔、調布市あるいは田園調布の地域に「調布」という地名があったのかもしれません。「調布」とは、古代の租税である租庸調の「調として官に納める手織の布」(調布とは – 歴史民俗用語 Weblio辞書) のことだからです。しかし、ネットで調べる限りでは、大昔の地名に、調布という名称は見つかりませんでした。
いまから800年前、興教大師が夢のお告げで不動尊を祀るために歩き回った「調布」がどこだったのかは、結局、わからないままです。ご存じの方は、教えてください。
(30) 玉川浄水場
田園調布駅から坂を上り、また下り、また上った丘のところに、鉄柵で囲まれた施設があります。現在は工業用水道のために使われている玉川浄水場です。「多摩川下流(調布取水堰(13))の水源は、原水水質の悪化により、水道用としての取水は休止しましたが、工業用水道の水源として、昭和54年に取水を再開し、玉川浄水場で処理した水を三園浄水場に送っています。」(東京都水道局『東京の水道』p.12)
(35)~(37) 九品山浄真寺
九品山浄真寺の広い境内は、イロハカエデが仁王門を包み込むように葉を広げ、大きな銀杏がたわわに実る大イチョウがあり、紅葉の時期は見事な彩りに染まる都内有数の紅葉スポットです。
九品仏浄真寺総門前にある案内板「創建の由来」には、
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万平方メートル(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6(1678)年に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。
とあります。2014年から2034年にかけて、九品仏像(上品堂・中品堂・下品堂の3つのお堂(三仏堂)にそれぞれ3体ずつ安置されている)および釈迦如来像を1体ずつ1年半から2年かけて修理する「平成九品仏大修繕事業」が行われています。
かつて奥沢城があった境内は、案内板によれば、
寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(みださんろく)の願い [Amida Buddha’s thirty-six vows;阿弥陀仏の36の願い] に即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱36柱、本堂ケヤキ柱36柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ36間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に足をはこび参拝結縁 [けちえん=世の人が仏法と縁を結ぶこと] したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっている。
とのこと。
浄真寺には、「おめんかぶり」の名で親しまれている仏教行事「来迎会」があります。3年ごとの5月5日に行われ、菩薩の面をかぶった僧侶や信者の方々が、三仏堂中央の上品堂(彼岸)から本堂(此岸)へ向かって、そのあいだに架けられた橋を渡ります。2017年のときの様子が、ホームページ《伝統の日本紀行 (Traveling Traditional Japan)》の「浄真寺 お面かぶり – 東京都世田谷区 – 5月5日」に詳しく載っています。
ハーフコース
すでに説明しましたが、「玉堤小学校(A)⇒多摩川駅(B)」を東急バス(玉11)・多摩川駅行きに乗車すると、歩く距離が2,681m短縮します。
また、田園調布駅(A)から東急東横線(渋谷駅方面:東急目黒線に乗り間違えないよう、お気をつけください)に乗車(隣の駅)し、自由が丘駅(B)で東急大井町線(溝の口駅方面)に乗り換えて九品仏駅(C)まで乗車(隣の駅)すると、歩く距離が1,700m短縮します。(地図では電車ルートを設定できないため、歩くルートで線を引いています。)