宗吾霊堂と成田山公園:京成線・宗吾参道駅~成田駅 (068)―13km

成田山公園

こんなコースです。

「佐倉義民伝」の宗吾霊堂
公津ヶ原の古墳群
四季おりおりの自然が豊かな成田山公園成田山新勝寺をまわる13kmのウォーキング 

  • 350年前、佐倉宗吾は家老の暴政に苦しむ領民の救済を幕府に直訴し、磔(はりつけ)に。「宗吾霊堂」は宗吾を祀っています。
  • 里山の風景を歩き、公津ヶ原古墳群、「成田ニュータウン(1972年入居開始)の中の緑道・公園をたどって成田山新勝寺へ向かいます。
  • 5万坪の広大な成田山公園には、色とりどりに紅葉するモミジクヌギイチョウなど250本が配されています。
  • 3月下旬から4月上旬にかけて、コースのあちらこちらでサクラが出迎えてくれます。そして6月は、宗吾霊堂で「あじさい祭り」が催されます。

コース概要

京成本線・宗吾参道駅―宗吾・飯仲古墳群―公津村道路元標―宗吾霊堂―橋川橋―橋賀台公園―公津原1号墳―公津ヶ原5号墳―赤坂公園―松ノ下近隣公園―中台運動公園―中台運動公園・体育館出口―JR踏切―成田山西参道―成田山出世稲荷大明神―額堂―成田山公園―平和大塔―成田山新勝寺―成田山新勝寺総門―成田山表參道―京成本線・京成成田駅

コース地図 (地図の右上の切れ込みがはいった□をクリックすると拡大します)

コース距離

ポイント 区間距離 累計距離
( 1) 京成本線・宗吾参道駅南口  ―  ―
( 2) 宗吾・飯仲古墳群前 452m 452m
「原風景」が残っている小径への入口 482m 934m
( 4) 宗吾霊堂仁王門 783m 1,717m
( 7) 奥山出口 (成田市戦没者慰霊塔) 418m 2,135m
(10) 橋賀台公園入口  1,600m 3,735m
(14) 公津ヶ原5号墳  1,750m 5,485m
(18) 赤坂公園船塚古墳  746m 6,231m
(20) 赤坂公園出口  422m 6,653m
(24) 中台運動公園 中台野球場前トイレ 1,180m 7,833m
(38) 成田山出世稲荷大明神  2,010m 9,843m
(43) 成田山公園浮御堂 1,240m 11,083m
(47) 成田山新勝寺大本堂 936m 12,019m
(51) 京成本線・京成成田駅  1,190m 13,209m

コースの写真

コースの写真は、068-宗吾霊堂と成田山公園:京成線・宗吾参道駅~成田駅 をご覧ください。

コースの紹介

京成線・宗吾参道駅―飯仲古墳群―464号線宗吾街道

京成線・宗吾参道駅で降り跨線橋上の改札を出て、宗吾霊堂への案内を示す右ではなく左へ下り、左手に丘が見えるから線路に沿って成田方面へ進む。踏切の先から山道のような細い道が上って行くのでそこに入り登り切って左へ行く。

少し先の右側の雑木林の中は「飯仲古墳群」だが、囲いがあり見学をすることができなかった。階段を下り向いの道に入ると左側に稲荷社がある。さらに先に行くと右側に車止めのある遊歩道があるので入る。宅地になる前の雰囲気が残っている。鉄塔に出会うと二岐に道が分かれているので、わかりにくいが左へ踏み跡を上る。舗道へ出たら左へ、地図通りに歩くと、464号線宗吾街道に出る。

東勝寺・宗吾霊堂―車止めのある舗道

宗吾街道へ出ると向かい側につくだ煮やがありその店のすぐ右の「公津村道路元標」を見て「東勝寺・宗吾霊堂」へ行く。見学後本堂裏手の奥山を(北へ)進み「成田市戦没者慰霊塔」から右へ車道に下り左へ行く。右側に公津小を見てしばらく行くと左側が開け道は下り坂になる。信号を渡り橋川橋を過ぎると右に祠がある。前方の高台の住宅地へ緩い坂を上って行くがそのまま上らず、右へ車止めのある舗道に入り(地図参照)上る。

橋賀台公園―1,2,3,4,5,6号古墳 (公津ヶ原古墳群)

「橋賀台公園」に入り円形の広場に上がる。東側から土の道を北へ下り公道へ出ずに園内を東へ、トンネルをくぐるとそのまま緑道になる。中央通りを歩道橋で渡り右へ下り左へ細い道へ入る。左側の草はらのこんもりとしているのは、古墳である。1,2,3、4号古墳を見て北へ、成田郵便局の先を右へ下りて案内のある所が5,6号古墳。

赤坂公園―8, 9号古墳

戻って、北へ、県道を渡ると「赤坂公園」。池の方へ下り左手の8号古墳を見ながら反時計回りに歩き途中から一段高いところに上がりさらに回り込む。9号古墳がある。池の方へ戻り緑道を歩き続ける。

郷部公園―中台運動公園―成田山の西参道

「郷部公園」を過ぎ「松の木近隣公園」の中を向台小近くの高台まで歩き緑道へ戻る。「石橋台公園」を通り、「中台運動公園」に下り野球場を時計回りに歩き、下って体育館の方へ鋭角に曲がり上って行く。体育館の前の広場、駐車場を右・東へ、前の通りを地下道で渡り階段を下りて右へ住宅地を進む。

右側の高台は木が生繁っている。二本目の角を左に曲り突き当りを右へ、住宅地内を歩き二岐を左へ上がりJR成田線の踏切を渡り成田小の前を通り、小学校の際を左へ次の角を右へ、信号を渡って左へ、ポストの角から成田山の西参道へ入る。

成田山公園―成田山新勝寺―成田駅

「成田山三学院」を過ぎると直に「出世稲荷大明神」、お参りをして境内を出て石仏のある坂道を土産物等の商店のある方へ下る。外周路へ出て「平和大塔」の先から、霊光館の前辺りから境内に入り噴水のところまで下りる。

三つの池の北側を歩き書道美術館の前を通り、「浮御堂」から南側を歩いて「雄飛の滝」を見て階段を上り、「額堂」、「釈迦堂」、「本堂」、「仁王門」、「総門」を通り表参道に出て右へ。緩やかに上って行く参道の商店をひやかしそして楽しみながら京成・成田駅まで歩いた。

コース解説

宗吾・飯仲古墳群

2019年5月現在、宗吾・飯仲古墳群がある一角はフェンスに囲まれて、立ち入ることはできません。フェンスには何の表示もないので、ここがどうなるのか不明でした。また、「宗吾・飯仲古墳群」に関する情報は 古墳探訪記 以外、ネット上にはほとんどありません。古墳公園として整備されることを期待します。
しかし、2020年6月現在、宅地造成中だそうです (宗吾飯仲古墳群1-2【千葉県成田市】)。古墳の調査をしたあと、保全することを望みます。

追記】ここは「成田市宗吾二丁目遺跡」という遺跡で、宅地造成に伴う埋蔵文化財調査が2020年に実施されたとのことです。
調査の結果、

古墳時代後期~終末期の古墳が5基(円墳2基・方墳3基)見つかり、また奈良・平安時代の墓と考えられる土坑が23基、方形周溝状遺構が3基あり、

佐倉市 – 印旛郡市文化財センター「成田市宗吾二丁目遺跡(第2次)第2地点」

5世紀末ごろから平安時代まで、ここは墓域とされていたようです。
 これから通る「公津ヶ原古墳群」も含め、印旛沼を取り囲むように古墳が点在しています。このあたり一帯は、古代から大勢の人が定住し、魚介類が獲れ、古墳をつくる経済力と権力が存在していたところなのでしょう。

 杉並ワンデーウォークの会の例会でコース作成の際、2008年9月27日に現地を訪問しました。以下は、そのとき撮った古墳の写真です。

宗吾霊堂(東勝寺)

正義の為に身をささげた佐倉惣五郎を祀る宗吾霊堂「東勝寺」は、土産物店が並ぶ大きなお寺だ。
境内に入ると、すぐに親子の墓があり、絶え間ない線香の煙が立ち昇る。

二十数年前歌舞伎座で「佐倉義民伝」を観た。
最終幕が上がるや、いきなり中村勘三郎を括りつけた十字架が立ち起こされた。
それは息を吞む衝撃的な映像として、今も目に焼き付いている。
惣五郎の将軍への直訴により、農民は過酷な年貢から解放されたが、
彼の掟破りの罪は厳しく、4人の子供ともども処刑されてしまうという、その場面だ。

この話は人々に後世まで語り継がれている。
境内には御一代記念館、霊堂、霊宝殿があり、義民惣五郎の生涯を見ることができる。

どこまでも長閑な田園風景の広がる道を歩きながら、
惣五郎一家の人生や、
封印された鎖を切って舟を出し、自ら印旛沼に身を投げた渡し守の甚兵衛、
改心した藩主が、惣五郎に「居士」の法号、子孫に田畑を与え、冥福を祈った等々、
それぞれの人生を思い、遠い昔の物語に想いを馳せたwalkingでした。 (by M.K.)

「宗吾霊堂縁起」によると、

……鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といいます。
境内は木々の緑につつまれ、春の花見に秋の紅葉にと年中人出が絶えません。
約10万平方メートルの広さに、年間参詣者は約250万人の人々が訪れる霊場です。
 当山の縁起は桓武天皇の時代に、征夷大将軍 坂上田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のため建立された真言宗豊山派の寺院です。
 我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名:木内惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
 この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2(1752)年、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
 以来、惣五郎様は宗吾様と呼ばれるようになり、寛政3(1791)年、堀田正順(まさなり)公は徳満院の院号と石塔一基を寄進しました。
 文化3(1804)年には堀田正時(まさとき)公が惣五郎様の子孫に田高5石を供養田 [注:コース地図の⑨橋川橋を通りすぎた右手の案内板に、説明があります] として与えました。


例年6月には境内で「アジサイ祭り」が行われます。また、10月下旬から11月下旬にかけて「菊花展」が開かれ、11月下旬ごろには紅葉が楽しめます。
宗吾御一代記館の裏にある「奥山」から成田市戦没者慰霊塔に行くことができ、成田市 公津公民館の脇で橋賀台公園方面への一般道に抜けられます。

成田ニュータウン

新東京国際空港(現:成田国際空港)関連就業者や空港建設に伴って流入する人々のために、計画人口6万人、住宅約1万6,000戸の北総地域開発事業として、千葉県北総開発局(現:千葉県企業庁)によって1968年(昭和43年)から造成が始まり、1972年から中台地区で一般入居が始まりました。空港開港の遅れから1975年時点の人口は8,000人に留まりましたが、その後、道路・鉄道が整備され、現在、人口3万1,863人、1万5,026世帯となっています (成田市統計情報「平成31年4月末日現在の住民基本台帳地区別人口の表」による)。事業は1989年に終了しています。
歩車分離が徹底した街づくりで、本コースでは、歩行者専用の緑道をとおって、橋賀台地区、赤坂地区、中台地区を移動していきます。
橋賀台地区には、日本航空社宅、全日空社宅、県営住宅、UR都市機構住宅、戸建て住宅などが広がっています。頂上部に芝生広場が広がる橋賀台公園には、調整池もあります。
赤坂地区は成田ニュータウンの中心に位置し、赤坂公園、市立図書館、公民館、金融機関、成田郵便局、救患診療所、消防署、ボンベルタ百貨店などがあります。赤坂公園は池や林などの豊かな自然を生かして作られており、成田市内最大の船塚古墳や公津原9号墳もあります。お花見スポットとしても賑わいます。
中台地区はJR成田駅西口に最も近く、駅前大通りに沿って成田市立中台運動公園や、UR都市機構住宅、空港関連国家公務員官舎、分譲マンションなどが建ち並んでいます。中台運動公園には体育館をはじめ、野球場、陸上競技場、テニスコート、球技上、相撲場、プールがあり、きれいに整備されています。

公津ヶ原古墳群

成田市の西にある手賀沼・印旛沼周辺には、公津ヶ原(公津原)古墳群をふくめ、多くの古墳が存在しています。
公津ヶ原古墳群が本格的に知られるようになったのは、成田ニュータウンの建設が始まった1969年以降のことです。
公津ヶ原古墳群には瓢塚(ひさごづか)古墳群 (保存されているのは7基)、天王・船塚(てんのう・ふなつか)古墳群 (同14基)、八代台(やつしろだい)古墳群 (同17基) の3つの支群があり、4世紀の前半から7世紀後半にかけて造営された120を超える古墳からなっています。
本コースでは瓢塚古墳群および天王・船塚古墳群に属する公津ヶ原1号墳から9号墳を見てまわります。なかでも赤坂公園内にある船塚古墳(8号墳)は前方後方墳で、全長85m、高さ7mの巨きな古墳です。

成田山公園

成田山境内の東側には、3つの池を配した16万5,000平方メートルある広大な公園が整備されています。
春には梅まつりが行われ、3月下旬から4月上旬にかけてソメイヨシノをはじめとした約350本の桜が庭園を淡いピンクに染め、4月下旬ごろはフジツツジが咲きます。10月下旬から11月中旬にかけての成田山菊花大会では、多種多様な菊花が展示されます。11月の紅葉まつりのころ、浮御堂から眺めるモミジの紅色は目を見張ります。
詳しくは、大本山成田山のホームページから、境内案内の「公園、その他の施設案内」をご覧ください。

成田山新勝寺

お寺では全国1位、神社仏閣では全国2位、約311万人の初詣参拝客が訪れる成田山新勝寺です (2019年)。ちなみに、

第1位 明治神宮(東京)
第2位 成田山新勝寺(千葉)
第3位 川崎大師 平間寺(神奈川)
第4位 浅草寺(東京)
第5位 伏見稲荷大社(京都)
第5位 鶴岡八幡宮(神奈川)

公式ホームページが充実しているので、「大本山 成田山」をご覧ください。境内マップ もあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください