畠山重忠(はたけやま・しげただ)終焉の地・鶴ヶ峰を歩く(518-1):6km

コースの特徴

  • 相鉄線鶴ヶ峰駅を起終点にした、変化に富んだ高低差約50m・距離約6kmのコースです。途中に休憩場所やトイレがあり、安心して歩けます。
  • 源頼朝の信頼あつく、鎌倉幕府の成立に力をつくし、武勇に優れ、清廉潔白な人柄で知られた畠山重忠。NHK大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」人に描かれる幕府の権力争いにまきこまれ、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、鶴ヶ峰付近で討ち死にしました。その史跡をめぐります。
  • 大規模な治水工事で川筋が大きく変わった帷子川(かたびらがわ)の原風景を保存している帷子川親水緑道では、崖から水がにじみ出ています。
  • 源義家が社殿を造営し御神像を祀り源頼朝が鎌倉入りの途中、境内の池で身を浄め勝利を祈願したと伝えられている白根神社は、森の中にあって滝があり、紅葉が楽しめます

2019年11月30日に相鉄新横浜線(西谷駅 – 羽沢横浜国大駅)が完成し、これによってJR新宿駅~相鉄線海老名駅間の直通運転が始まりました。
2023年3月には東急線との相互乗り入れが始まる予定で、渋谷駅・目黒駅方面からも便利になります。
新宿駅方面から相鉄線鶴ヶ峰駅へは、
JR新宿駅⇒相鉄線直通海老名駅行き:途中乗り換えなし、乗車時間47分、780円。
JR新宿駅⇒JR渋谷駅―東急東横線渋谷駅⇒東急東横線横浜駅―相鉄線横浜駅⇒相鉄線快速海老名駅行き:途中乗り換え2回、乗車時間63分、640円。

コースの概要

相鉄・鶴ケ峰駅北口帷子川親水緑道―用賀下橋―白根神社[白根神社鳥居―白根福授白蛇弁財宮―白根不動尊―小瀧不動尊―白瀧龍神―白糸の滝―白根神社]―白根公園―ループ歩道橋―旭図書館前―白根公園―鶴ヶ峰配水池駕籠塚鶴ヶ峰水道橋畠山重忠 すずり石水跡薬王寺六ツ塚―今川橋―畠山重忠公碑・さかさ矢竹畠山重忠公首塚鎧の渡し・首洗い井戸―鎧の渡し緑道―相鉄・鶴ヶ峰駅南口

コースの区間距離

ル ー ト

区間距離

累計距離

(01)鶴ケ峰駅(北口)

0m

(05)用賀下橋 1,000m 1,000m
(06)白根神社鳥居 600m 1,600m
(15)旭図書館前 840m 2,440m
(19)鶴ヶ峰水道橋 1,170m 3,610m
(22)六ツ塚 720m 4,330m
(23)今川橋 525m 4,855m
(28)鎧の渡し緑道(水道道口) 790m 5,645m
(01)鶴ヶ峰駅(南口) 250m 5,895m

注:( )内の数字は、下記「コースの地図」(Googleマップ)中のコースポイント番号。

コースの地図

グーグルマップ上に記したコースポイント番号は、以下の説明の中にある《カッコで囲った赤字の数字(00)》に対応しています。
パソコンでご覧の方は、グーグルマップの右上にある、切れ目が入った正方形マークをクリックすると、大きな地図になります。

コース説明

「鶴ヶ峰」という地名の由来

「鶴ヶ峰」の地名は、『吾妻鏡』の「元久二年六月小廿二日戊申」の項に、畠山重忠が「鶴峯之麓于陣す(つるがみねの ふもとに じんす)」とあります(鎌倉歴史散策の歴散加藤塾別館、吾妻鏡入門の頁)。1205年のことです。
その由来には2説あるそうです。ひとつは、昔、水流のことを 「ツル」と言い、「ツルの流れがある山」からだという説と、鶴が飛来したからだという説です。

帷子川(かたびらがわ)

旭区若葉台付近を水源として、横浜港に注いでいる全長17kmの二級河川です。
川の一方が山に囲まれ、他方には田野が広がる平地だったことから「片平(かたひら)」の名が起こり、それが「帷子(かたびら)」となったのではないかと言われています。
川が蛇行しており、大雨が降ると氾濫したことから「暴れ川」と言われていました。
昭和 33 年の 22 号台風により大災害を受け、以降、河道拡幅・河道掘削・護岸整備や分水路の整備など、治水対策が進みました。
鶴ヶ峰駅周辺も昭和36 年の集中豪雨を契機に、河川改修が行われました。
帷子川親水緑道のすぐ下流にはトンネル区間5.3kmの「帷子川分水路」が1997年に完成し、中流から下流にかけての洪水被害が緩和されています。

鶴ヶ峰から帷子川(かたびらがわ)水源を歩く(518-2):12km」で、鶴ヶ峰駅から帷子川水源まで歩くコースを紹介しました。

畠山重忠(はたけやま・しげただ)について

畠山重忠 (はたけやま・しげただ) は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。
2022年1月から放映された、三谷幸喜・脚本のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が平家一門を滅ぼし鎌倉幕府を開く物語からはじまり、頼朝死後、鎌倉幕府に起きた手に汗をにぎるオセロゲームのような熾烈な権力闘争が描かれます。
畠山重忠は、集団指導体制であるこの「十三人の合議制」には加わっていませんが、武士の鑑と謳われる武者」として物語に登場します(中川大志さんが演じます)。
畠山重忠は、平安時代後期の1164年、畠山館 (埼玉県深谷市) に生まれました。秩父氏一族の畠山氏は平家に仕えていましたが、1180年、重忠は頼朝に帰順し、先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入ります。重忠は御家人となって、将軍直属の家臣として頼朝の信任を得ました。
しかし、頼朝死後の権力闘争に巻き込まれます
1205年、鎌倉に向かう途中、鶴ヶ峰付近で北条氏の待ち伏せにあった畠山勢は、帷子川、二俣川をはさんだ4時間の戦闘の末、弓矢の名手として知られる愛甲三郎 (季隆) の放った矢に重忠が射抜かれ、全員が討ち死にしました。

(03)帷子川親水緑道

帷子川では洪水被害を防ぐために、蛇行する河道を直線にするなどの大改修工事が行われました。この帷子川親水緑道は、蛇行していた旧河川を生かして、緑があふれ、かつての清流を再現して創られた緑道です。河道の崖からは水がしみ出し、小さな吊り橋もかかり、竹林も配され、きれいな紅葉が見られる、ほっとした空間です。
帷子川 (旧川を活用した緑道整備と市民協働による多自然川づくり)(横浜市道路局河川企画課、令和2年3月) に、河川改修の記録が載っています。

(06)白根不動・白根神社

帷子川の支流・中堀川が流れる白根神社は、明治になるまでは不動堂だったそうです。
その起源は、社伝によれば、八幡太郎源義家が前九年の役(1053-62年)の際、兜の中に高さ6.5cm弱の不動明王坐像を納めて奥州に向かったところ勝利したので、康平6(1063)年に社殿を造立してこの坐像を祀ったのが始まりです。源頼朝は治承4(1180)年、後白河法皇の皇子が諸国の源氏に発した平家追討を命ずる令旨を受け、鎌倉入りの途中で義家の故事を想い起こし、不動堂境内の鬢手洗池 (びんだらいけ) で身を浄め勝利の祈誓をしたと伝えられています。
建久2(1191)年、堂宇は再び造立されましたが、正慶年間(1332-33年)の新田義貞の鎌倉攻めで、燃やされました。
この場所は鎌倉古道の「中の道」が通る、当時は交通の要衝だったようです。
畠中重忠も1205年、武蔵嵐山渓谷の近くにあった本拠地「菅谷館」から、70kmの道のりを鎌倉古道を通って鶴ヶ峰に向かいました。

(07)白根福授白蛇弁財宮

白根神社の鳥居をくぐり参道を進むと、右に「蛇之塚」という道しるべがあり、階段をくだって中堀川にかかる小滝橋を渡ると、「妙法 蛇之塚」があります。一段低い平らな場所で、ひっそりとしています。このあたりにいた大きな白蛇を埋めた塚だと言われています。
中堀川は深い渓谷になっていて、大雨が降れば川は奔流となって暴れ狂ったことでしょう。その様子は、昔、龍が身をくねらせて上り下りしていると思われたのではないでしょうか。
もと来た道を参道に戻ります。

(08)白根不動尊

参道から階段を上った広場の正面に、森をバックにして白根不動堂があります。右手には、馬頭観世音菩薩、子育観世音菩薩の石仏が並んでいます。広場の中央に、まわりの石に「合掌」と刻んである八角形の台座のようなものがありますが、これは祭壇なのか、それとも蓋のしてある井戸なのか、初めて見るものでした。
白根不動尊では、毎年1月28日に、初不動に合わせて開運の「だるま市」が開かれ、にぎわうそうです。

(09)小瀧不動尊、(10)白瀧龍神

馬頭観世音菩薩の脇から階段を下り、竜泉橋を渡ると正面に、急な古びた上り階段が伸びています。危険なため通行できなくなっていますが、昔は白根神社へはこの階段を使っていたのでしょう。
左に行くと、小さな滝の脇に小瀧不動尊、右に行くと洞窟のなかに白瀧龍神がいます。洞窟の奥からは水が湧き出ていました。
中堀川に沿って白根不動堂の裏をまわりこんで白糸の滝へ向かうこともできますが、もと来た道を白根不動堂へ戻り、お堂の左にある道を通って白糸の滝へも行けます。私は、いったん白根不動堂へ戻りました。

(11)白糸の滝

白根不動堂から白根神社に向かいます。白糸の滝橋の手前から、整備されたものではありますが、白糸の滝が見えてきます。最高気温35℃の日に歩いていても、このあたりは涼しさが感じられました。幅7m落差3.2mの白糸の滝は、横浜市でいちばん大きい滝だそうです。

(12)白根神社

白糸の滝を過ぎ、九十九折りの急坂(舗装されている)を上りきったところに社殿があり、工事中でした。高台にあって、いま来た不動尊や、これから通る図書館などが良く見えます。
が、標高差20m急坂を登って森の中に来たというのに、社殿の横には駐車場があり、車道が通じていました。

(13)白根公園―(14)ループ歩道橋―(15)旭図書館

白根神社の急坂を下り、白糸の滝橋を渡ると正面に、白根公園の芝生広場と、道路をまたいで向かいの旭区図書館に向かうループ橋が見えます。
白根公園にはベンチも水飲み場もトイレもあるので、ひと休みしましょう
ループ橋を渡り、横浜市白根地区センターと旭区図書館との間を抜けるとテニスコートがあって、右に歩くとトイレがあります。
トイレの手前から、細い道を上ると、さっき通ってきた「白根公園」とは別の細長い(16)白根公園に出てきます。左へ歩いていくと通行禁止の表示があり、その手前の階段を上ると、鶴ヶ峰配水池に出ます。
トイレの場所から鶴ヶ峰配水池まで、標高差25mを登ります。
ここからは、さきほど歩いた白根不動、中堀川の向こうの高台に建てられたマンション群、また、横浜のビル群も見渡すことができます。
ここからの夜景は、きらめく灯りがちりばめられてロマンチックだろうなと、目をつむって想像しました。

(17)鶴ヶ峰配水池

この場所には、相模湖系統の原水を浄水処理し、同敷地内の配水池から市内約 84,000 世帯へ給水していた「鶴ケ峰浄水場」がありました。
施設の老朽化・耐震性の問題から、横浜市水道局の浄水場・配水池再編計画に沿って整備が行われ、耐震性を有し、停電にも対応できる「鶴ケ峰配水池」が平成29年に完成しました。
現在、相模湖系導水路改良事業の工事が行われています。
横浜水道(水道道)について、旭ガイドボランティアの会の「横浜水道の歴史」をご覧ください。

(18)駕籠塚

畠山重忠の妻・菊の前のお墓
1205年、重忠の戦死を知った菊の前はここで自害し、籠のまま埋葬されたことから「駕籠塚」と呼ばれています。
元久2 (1205) 年6月23日、畠山重忠は、頼朝の没後に実権を握った初代執権であり岳父 (菊の前の父) である北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、時政の息子・北条義時の大軍と二俣川・鶴ヶ峰で戦い、重忠側は一族134名がことごとく討ち死にします。
その悲報が、秩父の菅谷館に達します。
菊の前は、急遽、北条のところに赴こうとします。
しかし夫の重忠はすでに戦死しており、嘆き悲しみ慟哭して、この地で重忠に殉じたのです。
駕籠塚は、永く菊の前の霊を弔って今日に至っています。

(19)鶴ヶ峰水道橋

突如、目の前にあらわれる鉄柱を組んだ橋に、驚かれることと思います。
横浜開港後、急激に増加する横浜の人口に対応するため、神奈川県知事は英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマー氏を顧問に迎え、明治18(1885)年に相模川と道志川の合流地点の三井(現在の相模原市緑区三井)を水源に水道の建設に着手し、明治20(1887)年10月に日本初の近代水道として給水を開始しました。
その後、道志川水系からの水を浄化する川井浄水場、西谷浄水場を築造しました。関東大震災、太平洋戦争による被害を経て、戦後の復興と高度経済成長に鶴ヶ峰浄水場などの新設、相模ダム・城山ダムを建造して水需要にこたえてきました。
そのなかで、道志川・相模ダムから取水した水に圧力を加えて横浜へ運ぶ水道本管増設を補完するものとして、傾斜を利用してU字溝で水を流す、コストの安い「開渠方式」が7kmの区間で採用されます。
このU字溝 (現在は蓋をして暗渠になっています) は尾根の稜線の傾斜を利用していますが、途中、3カ所の谷戸 (「大貫谷戸」「梅田谷戸」「鶴ヶ峰」) は、橋で越していくのです。大貫谷戸を越すU字溝は、高さ26mあります。

横浜水道は、相模湖から導水しています。「始」は鶴ヶ峰配水場、「終」は相模湖城山ダム付近です。(国土地理院地図より)

(20)畠山重忠 すずり石水跡

畠山重忠がここ鶴ヶ峰に陣を構えたとき、この湧き水で墨をすったと伝えられています。
ここは谷戸の奥にあたる場所で、昭和初期までは崖からきれいな湧き水が流れていたとのことです。
ところで、重忠は何をするために「湧き水で墨をすった」のでしょうか? 調べてみたけれど、分かりません。
圧倒的な劣勢で戦いに挑むにあたり、辞世の句をしたためようとしたのでしょうか?
源頼朝にその愛馬「磨墨 (するすみ)」を下賜されたほど信任されたものの、頼朝の死後、追放され非業の死を遂げた梶原景時を、今のわが身と重ね合わせて墨を磨ったのではないかと、こじつけの空想をしてしまいました。

(21)薬王寺・(22)六ツ塚

薬王寺は、昭和3 (1928) 年、畠山重忠らを慰霊する「畠山重忠公霊堂」として、廃寺であった他の地(地図(29)付近)から移転しました。毎年6月22日に重忠公和讃や重忠節踊りの奉納などで、畠山重忠をしのぶ慰霊祭が開催されています。
薬王寺山門の脇、道角に六ツ塚があります。
六ツ塚には、鎌倉幕府の権力闘争に巻き込まれ、謀反の嫌疑をかけられ「畠山重忠の乱」で亡くなった畠山重忠とその家臣たちが、眠っています
鎌倉北条時政から「急ぎ鎌倉に出頭せよ」との命に接した畠山重忠は、菅谷の館(現埼玉県比企郡)を6月19日出発し、鶴ヶ峰にさしかかったところ、雲霞のように現れた数万騎の軍団が、ここ霊堂の前方、帷子川を越えた彼方の大地(万騎が原)方面から突然攻め寄ってきました。
重忠は策にかかったと認識したものの、武士として引き下がるよりは、ここで決戦を構えることを覚悟します。
この時、重忠の重臣たちは、いったん菅谷の館に引き返し、軍を整えて、鎌倉方からのアクションを待つようにと進言したものの、重忠は毅然として、「そのようにしたら、我に陰謀があったということになり、無実が事実となってしまい、永久に汚名を着る」と諭しました。
そして、午の刻(正午)から数時間にわたる激戦となり、重忠は愛甲三郎季隆の矢に当たり、ついに一族郎党134騎とともに玉砕したのです。
時は元久2 (1205) 年6月22日、重忠42歳。
この地に主従一同と6カ所に葬られ、代々伝えて「六ツ塚」と言うとのことです。

畠山重忠の居館・菅谷館と、鶴ヶ峰、鎌倉幕府との位置関係。(国土地理院地図を元に加工)

(24)畠山重忠公碑・さかさ矢竹

厚木街道と水道道との交差点の角に、「吾妻鏡 鶴ヶ峰・二俣川合戦の地」「吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地」と記された柱が立っています。
帷子川の流れを眼下に望む地にある畠山重忠公碑は、重忠没後750年にあたる昭和30 (1955) 年6月22日の命日に、地元鶴ヶ峰と埼玉県川本町の有志によって建てられました。碑には、重忠は自刃したと記されています。
公碑の手前に、竹が植えられた一角があります。説明書きによると、

鎌倉武士の鏡 畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢篦 (やの) 二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。
  平成十七年六月二十二日  横浜旭ロータリークラブ

(25)畠山重忠公首塚

ここは畠中重忠公の首が葬られたところといわれていますが、実際は、このあたりで首を切られ、首洗い井戸で洗い清められて鎌倉に送られたようです。この首塚の前の細い道は、鎌倉街道「中の道」です。
案内板によれば、首塚は現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたとのこと。

(26)鎧の渡し・首洗い井戸

案内板によると

ここには重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は帷子川の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。

この案内板は旭区役所の敷地の柵の中に立っていて、とても井戸があるという雰囲気ではありません。
治水のための河川改修が行われる前、帷子川は(27)鎧の渡し緑道となっているところを流れる清流で、水量も川幅もあり、兜を頭の上に掲げて流れを渡ったことから「兜の渡し」と言われたそうです。

畠山重忠ゆかりのコース案内

当サイトにある、畠山重忠ゆかりの場所を通るコースを紹介します。

鎌倉幕府跡を歩く (517)-7km

鎌倉にあった畠山重忠邸宅址を通ります:「畠山重忠邸址 (鶴岡八幡宮 東鳥居前)

武蔵嵐山の散策(049)-10km

畠山重忠が居住した地と伝えられている菅谷館址を通ります:「(24) (25) 菅谷館跡(国指定史跡)

武蔵御嶽神社

武蔵御嶽神社ホームページ「神社由緒」によると、

[武蔵御嶽神社は] 中世になると山岳信仰が興隆し、戦国時代にかけて関東の修験の中心となります。特に鎌倉時代には「金峰山御嶽蔵王権現」として有力な武将達から信仰され、武将の畠山重忠は鎧・鞍・大刀などを奉納したと伝えれれています。

畠山重忠像

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください