狛江・古墳めぐり(200) -10.5km

慶元寺;三重塔

駅前に木々が生い茂る小田急線・狛江駅。周辺には古墳が点在しています。

コースの特徴

新宿駅から20分。小田急線・狛江駅の周辺には、古墳が点在しています。今回は、狛江駅を出発し、これらの古墳を探しながら、歴史のある寺社をも訪ね、成城学園前駅まで10.2kmを歩きます。森や畑が残り、心安らぐ所です。また、むいから民家園の前の通りは桜の並木道がつづいています。

コース概要

小田急線・狛江駅―泉龍寺弁財天池―亀塚古墳―鎌倉橋―むいから民家園―玉翠園―万葉歌碑―兜塚古墳―伊豆美神社―駄倉塚古墳橋北塚古墳土屋塚古墳―岩戸川緑地公園(入る)―岩戸川緑地公園(出る)―第六天塚古墳喜多見稲荷塚古墳―喜多見氷川神社―慶元寺―次太夫堀公園―小田急線・成城学園駅

なお、むいから民家園、次大夫堀公園民家園は、月曜日が休園です。

狛江古墳群

多摩川に沿って、古墳が点在しています。東横線が多摩川を横切る手前の多摩川台公園には5世紀末から6世紀初ごろの前方後円墳など残っていますし、等々力渓谷にも古墳があります。府中には熊野神社古墳があります。なかでも狛江には多数の古墳があって、都内有数の古墳群だそうです。築造は5世紀前半にさかのぼるものもあり、3世紀と推定される古墳も発掘されているとのことです。

狛江古墳群について、狛江市教育委員会が発掘調査などにもとづいた解説を公開しています。

「狛江古墳群は、周辺地域に先行して成立した群集墳で、分散型の初期群集墳とよばれる特殊なもので、比較的大型の円墳を中核として(一部帆立貝形古墳を含む)、短期間に多くの円墳が並行して造営された古墳群であるということができます。」(狛江市教育委員会『文化財ノート9 狛江古墳群 I 』2015年8月13日)

「狛江古墳群の被葬者は、もともとは在地の一有力者でありながら、畿内政権と直接むすびつきをもつことにより、多摩川中流域の最初の首長墳である前方後円墳の砧中学校7号墳のあとをうけて、約100年以上の間、同地域のムラムラを統括してきた首長たちと、そのもとに結集した軍事集団の構成員たちだったと考えることができるでしょう。」(狛江市教育委員会『文化財ノート10 狛江古墳群 II 』2015年8月13日)

この資料には古墳の分布や年表もまとめられていて、これからまわる古墳を概括的にしることができます。

コースの写真をご覧ください

写真は ⇒コチラ から。

コース地図をご覧ください

コース全体図です:

出典:国土地理院「地理院地図Vector」標準地図

コース距離です。

(各ポイントの番号は、地図上の番号です

ポイント区間距離累計距離
小田急線・狛江駅  
泉龍寺弁財天池180m180m
亀塚古墳515m695m
鎌倉橋250m945m
むいから民家園225m1,170m
玉翠園1,000m2,170m
万葉歌碑175m2,345m
兜塚古墳625m2,970m
伊豆美神社370m3,340m
駄倉塚古墳1,000m4,340m
橋北塚古墳540m4,880m
土屋塚古墳400m5,280m
岩戸川緑地公園(入る)395m5,675m
岩戸川緑地公園(出る)1,100m6,775m
第六天塚古墳185m6,960m
喜多見稲荷塚古墳260m7,220m
喜多見氷川神社525m7,745m
慶元寺380m8,125m
次太夫堀公園780m8,905m
小田急線・成城学園駅1,320m10,225m

コースの説明

泉龍寺弁財天池

伝説によると、今から約千二百年以上も前の奈良時代に全国的な干ばつがあり、東大寺開山として有名な良弁(ろうべん)僧正がこの地において雨乞いを行った(765年)ところ、竜神が現れて雨を降らし、その時に水が湧き出したということです。池の中島には元禄6年(1693年)にできた石の祠があり弁財天がまつられています。いつの旱魃にも涸れることなく、下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、都市化とともに昭和47年11月に涸れてしまいました。(案内板より) 弁財天池から、岩戸川(別名、清水川)の流れが始まります。
しかし、弁財天池は、もっと昔から人々の生活をささえていたようです。

「泉龍寺弁財天池の北側台地上には、先土器時代から縄文・弥生・古墳・歴史時代にわたる大規模な複合遺跡「弁財天池遺跡」が分布していました。弁財天池の湧水が、原始・古代の人々の生活を支えていたものと思われます。」(狛江市教育委員会『文化財ノート2 弁財天池遺跡』2015年8月13日)

なお、泉龍寺は曹洞宗で、永平寺および総持寺が大本山です。

亀塚古墳

分かりにくい場所にあります。細い路地の突き当りにある、コンクリの階段と、こんもりとした小山が、亀塚古墳です。全長40mの帆立貝形前方後円墳で、狛江古墳群のなかでも屈指の規模を誇っています。5世紀末から6世紀初めの築造で、古墳の周囲には周溝があり、高さ6.9mの墳丘には埴輪が置かれていました。後円部から2基、前方部から1基の棺が発見され、銅鏡や鉄剣、馬具など多数の副葬品が出土しました。
とくに銅鏡は中国・後漢時代(25~220年)の歌人歌舞画像鏡で、これと同じ鋳型でつくられた鏡が大阪の古墳で見つかっていて、亀塚古墳に埋葬された人物が畿内王権と深くむすびついた豪族であったと考えられています。
多くの貴重な出土品が発掘された亀塚古墳ですが、その後の開発工事によって墳丘のほとんどが削られてしまいました。現在は、墳丘のごく一部に徳富蘇峰(とくとみそほう)が揮毫した石碑が建っているのみです。(案内板より)

鎌倉橋

住宅街の中に、いまは水路が見えないのに、欄干のみが残っています。狛江を過ぎる主要な道のひとつに、南北を縦断する道がありました。高井戸ー祖師谷―入間―覚東―和泉―田中橋―渡船場―登戸、です。この道は、高井戸道、鎌倉道とも呼ばれました。「鎌倉橋」という名称は、鎌倉道の伝承に基づいて名づけられたものでしょう。(「狛江市ホーム」 > 狛江の魅力 > 狛江の歴史・文化財 > 語り継ぐむかし > □狛江の古い道)

六郷用水

狛江のあたりは、南に多摩川、北のほうに野川が流れ、湧き水も豊富でしたが、灌漑用の水路も開拓されていました。
鎌倉橋のすぐ先、「田中橋」という信号のところに祠があります。桜並木がつづいている祠の前の道(現在の福祉会館通り)には、「六郷用水」が流れていました。六郷用水は、慶長2年(1597年)から14年(1609年)にかけて小泉次太夫の指揮のもとに開さくされた全長24kmの潅概用水です。多摩川住宅の南端のところで多摩川から取水され、狛江市役所の南のいちょう通りへと続き、一の橋から先は世田谷通りに沿って、はるか大田区六郷方面の水田をうるおしていました。取入口の近くには水神社が祭られていました。(「狛江市ホーム」 > 狛江の魅力 > 狛江の歴史・文化財 > 語り継ぐむかし > □六郷用水の盛時)

むいから民家園

訪れた日は月曜日で、残念ながら休園日でした (営業は9:30~16:30)。園内には2棟の建造物が移築復元されており、旧荒井家住宅主屋は、18世紀末頃、和泉村(現在の元和泉一丁目辺り)に建てられたもの、旧髙木家長屋門は、安政6年(1859年)、覚東村(現在の西野川一丁目辺り)に建てられたものです。「むいから」とは屋根に使う麦わらのことで、古民家園の愛称となっています。(詳しくは➡「狛江市教育委員会ホーム」 > 狛江の歴史・文化財 > むいから民家園)

水神社から、多摩川の土手にのぼってみましょう。遠く奥多摩の山々、晴れていれば富士山が見える絶景です。土手から下り、道路を渡って、来たほうに少し戻ると、奥に石垣を組んだ空き地があります。ここには「玉翠園」がありました。

「明治三十九年、多摩川にのぞんだ和泉圦上(いりうえ)の山林二千坪ほどを父の半三郎さんが買い取った。老松が茂り、多摩川の向こうには、多摩の横山を前景に、丹沢・大山の山並みや、富士山が遠望できる景勝の地であった。……大正二年になると、公園の中に玉翠亭という川魚専門の料亭を始める。十年には、公園内に小学生のための林間学校を建設し、宿泊設備を整えた。……玉翠園は今日の公民館のような使命も果たしたのである。
昭和十八年、戦況の悪化から料亭の営業が続けられなくなり廃業、すべてを東京都に売却した。」
(「狛江市ホーム」 > 狛江の魅力 > 狛江の歴史・文化財 > 語り継ぐむかし > □玉翠園一代)

「玉翠園の「玉川清遊御案内」というちらし(昭和六年)によると、遊船(家根船、船夫付き三時間以上)、五人乗りまで三円五十銭、十人乗りまで六円、十五人乗りまで八円五十銭、二十人乗りまで十円となっている。なお漁夫一人網付き一日二円十銭であった。
川魚料理は鮎(アユ)、鯉(コイ)、鰌(ドジョウ)一人前四十銭以下、鰻(ウナギ)、鯰(ナマズ)一人前八十銭以下、日本酒五十銭以下、ビール四十五銭以下、サイダー三十銭以下。いずれも「以下」というのが面白い。
団体会席(会費一円から三円)、園遊会(会費一円)なども引き受けた。句会や歌会などの利用も盛んだったようだ。お客さんは小田急が開通するまでは京王線北浦(後に国領)から徒歩や人力車でやってきた。」
(「狛江市ホーム」 > 狛江の魅力 > 狛江の歴史・文化財 > 語り継ぐむかし > □玉翠園の船遊び)

万葉歌碑

『万葉集』巻14の東歌の一首が刻まれています。

多麻河泊爾左良須弖豆久利佐良佐良爾
奈仁曾許能児能己許太可奈之伎

多摩川に さらす手作り さらさらに
何そこの児の ここだ愛しき

寛政の改革を行った老中・松平定信の揮毫です。文化2年(1805年)に猪方村字半縄(現在の猪方四丁目付近)に建てられましたが、文政12年(1829年)の洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成され、定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正11年、旧碑の拓本を模刻して新碑が再建されました。
日本で最初に「多摩川」が出てきたあずま歌で、防人が、多摩川の流れに麻の布を晒している娘たちを愛しく詠んでいます。(詳しくは、狛江市教育委員会『文化財ノート1 万葉歌碑』2015年8月13日をご覧ください)

兜塚古墳

墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳。ただし、周溝の一部の状況から、円墳ではなく、帆立貝形の古墳である可能性も指摘されています。本格的な調査が実施されていないものの、墳丘からは土師器や円筒埴輪が出土されていて、その年代から6世紀前半の築造と推定されています。5世紀後半から6世紀初頭と推定される亀塚古墳の次世代の盟主墓と考えられています。(案内板より)

伊豆美神社

もとは六所大明神と称していましたが、明治元年 (1868年)、地名の「和泉」にちなんだ伊豆美神社と改称されました。字大塚山(現在の水神社のあたりと想定されます)に鎮座していましたが、天文19年(1550年)の多摩川の大洪水で流失し、現在地に遷座しました。参道にある石鳥居は、花崗岩で造られた小ぶりの鳥居で、慶安4年(1651年)に石谷貞清によって建てられました。日光東照宮、鎌倉鶴岡八幡宮と並ぶ関東三大鳥居の一つとされ、武蔵国では最も古い石鳥居で、同様のものが喜多見の氷川神社にあります。主祭神の大國魂大神は、慈悲の心深く、福の神、縁結び、医薬の神として昔から信仰されてきました。(市の解説および案内板)

六郷道

明暦3年 (1657年)、「振袖の火事」の大火のあと、老中・松平伊豆守信綱は江戸の町の区画改正と江戸城外郭の修築を計画し、その資材に氷川・日原・丹波山で切り出された良質の木材を使うことにしました。
ところが、奥多摩の鳩の巣には巨大な岩が転がり、魚留滝(なるたき)が筏の通行を阻んでいました。多摩川の上流から魚留滝まで一本流しできた木材は、ここで筏に組み、多摩川河口付近の六郷まで筏師が操って流していきました。仕事を終えた筏師たちは、多摩まで歩いて戻らねばなりません。帰るときに使ったのが「六郷道」で、「筏道」「いききの道」とも呼ばれていました。府中の東郷寺、瀧神社の脇にも、「いききの道」の標識があります。
ところで、魚留滝のあたりには、木材を管理する役人や人夫たちの飯場小屋がありました。飯場に祭った水神社(玉川水神社)の森には、仲むつまじい2羽の鳩が巣を営んでいました。その様子は人々の心を和ませ、ここの飯場は「鳩の巣飯場」と呼ばれるようになり、それが「鳩ノ巣」という地名になったと言われています。なお、魚留滝は、江戸時代末期1859年の大洪水で崩壊しました。

駄倉塚古墳

「狛江市役所前」という信号の角にあるマンションに接してありました。どこにも「古墳」だという表示はありません。一見、コンクリで周囲を固めた土盛りに、松の木が植えられているだけです。周辺部がかなり削られてしまった直径40m、高さ4mの円墳です。マンションのほうから回り込んでみると、階段があって頂部に登れました。頂部には「征清戦死招魂碑」という碑だけあります。「駄倉」の名前は、地区センター、保育園、マンションの名前についており、いまは「狛江市役所前」という交差点は、むかしは「駄倉の交差点」と呼ばれていたそうです。

橋北塚古墳(三角塚古墳)

いちょう通りから路地に入って、さらに右折すると、頑丈な塀に囲まれた一角が左側にあります。その塀に、「三角塚園庭」というプレートが貼られています。ここが橋北塚古墳(直径23m、高さ3mの円墳)のある場所ですが、外からは見えません。古墳は、2017年に新設された保育園の園庭のなかにあります。
墳丘に葺石はなく、埴輪も確認されていませんが、平成2年の調査で、古墳を取り巻く周溝の一部が確認されています。墳頂付近に円礫が集中して残されていることが確認され、古墳の主体部は、木棺のまわりを拳大ほどの丸い石を集めて覆った礫槨 [木棺の下および側に礫を詰め上を被った埋葬施設] であったと考えられています。(案内板より)

土屋塚古墳

いままで見てきた古墳に比べて、とてもよく整備され、全体がよく分かります。土屋塚古墳は、直径33m、高さ4.5mの円墳で、東側に造出部を有し、その外側に幅1.5mほどのテラスと幅10mの周溝がめぐらされています。出土した埴輪は、製作技法から、上野(こうづけ;群馬県)に拠点をおく工人集団がこの付近で採取される粘土で製作したもの、と考えられます。また、河内地方を起源とする装飾が施された円筒埴輪も出土しています。
土屋塚古墳は、出土遺物から、5世紀第3四半期ごろの築造と推定されています。多摩川流域では、5世紀にはいると、それまで古墳が築造されなかった野毛(世田谷区)に、大型の帆立貝形古墳が築造されはじめます。これは、畿内における王権の変遷と関連するものと考えられ、狛江でも野毛地区と連動して、5世紀半ばから古墳の造営がはじまります。(狛江市教育委員会の案内板)

岩戸川緑地公園

植木が植わった細い曲がりくねった道の右側を、せせらぎ が流れています。いい感じの道だなと思ったのもつかの間、せせらぎ とともに歩けるのは100mちょっとの区間だけ。あとは、岩戸川を暗渠にした道を1km近く、くねくねと歩きます。よく手入れされた植木には、地元の人の愛情が感じられました。いつしか道は世田谷区に入り、世田谷区立喜多見中学校のところで、一般道と接します。中学校の反対側には、おとぎの国のような慶元寺幼稚園の園舎が見えます。

第六天塚古墳

5世紀末から6世紀初頭に築造された円墳です。直径28.6m、高さ2.7mの墳丘で、周囲上端の幅6.8~7.4m、下端幅5.2~6.7m、深さ50~80㎝の周溝が掘られ、その内側にはテラスがありました。ここには江戸時代後期、第六天が祭られ、松の大木が生えていたそうです。(世田谷区教育委員会案内板)

須賀神社

承応年間(1652~1654年)に喜多見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのがはじまりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれているそうです。例大祭の8月2日に、社殿前に巨釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける湯花神事(湯立て)が執り行われています。この湯がかかると1年間病気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めているとのことです。(世田谷区教育委員会案内板)  

喜多見稲荷塚古墳

よく保存されていて、まん丸の姿がよく分かります。直径約13m、高さ約2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周溝がめぐっています。埋葬施設は横穴式石室で、長さ6m、凝灰岩切石を積み上げて羽子板上につくられています。古墳時代後期7世紀初めころの有力な族長墓と考えられているとのことです。(世田谷区教育委員会案内板) 頂部には祠がありましたが、残念なことに、ビールの空き缶が散乱していました。罰当たり!

喜多見氷川神社

喜多見氷川神社は天平12年(740年)の創建と伝えられていますが、詳細は明らかではなく、古くは多摩川岸に近いところにあったということです。永禄13年 (1570年)、この地の領主・江戸刑部頼忠(東京を開いた江戸重長の末流で、後に喜多見氏と改姓)が社殿を修復し、慶安2年 (1687年)、喜多見若狭守が再建しました。承応3年 (1654年)に喜多見重恒・重勝兄弟は、銘文を刻んだ石の鳥居(二の鳥居)を寄進しました。これは都区内の鳥居としては最古の部類に入り、伊豆美神社の石鳥居と似ています。
節分のとき、社殿にて祝詞奏上の後、「鬼やらい」の神事が行われます。この神事は都内でも珍しく貴重な民俗行事として世田谷区より無形民俗文化財に指定されました。(喜多見氷川神社ホームページ)

慶元寺

周辺から見える三重塔のところが、慶元寺です。慶元寺には、江戸城と関係したこんな歴史があります。

文治2年(1186年)に江戸太郎重長により江戸城(現:皇居)付近にて創建された。当初は岩戸山大沢院東福寺といい、天台宗の寺院であった。
武蔵平一揆の敗退などにより、江戸氏は没落していき、太田道灌に江戸城を明け渡し支配拠点を喜多見に移転。それに伴い当寺院も応仁2年(1468年)に喜多見の地に移転。天文19年(1540年)に真蓮社空誉上人により、浄土宗に改宗された。寺院名も永劫山華林院慶元寺となった。
江戸氏は江戸時代には喜多見氏と改姓して徳川幕府に仕えた。そして、喜多見勝忠により寺は文禄二年(1593年)に再建。その後、寛永13年(1636)11月9日徳川家光より寺領10石の朱印状を受け格式ある寺院となった。
宝永年間に火災にあい、寺宝を失ったが、1716年に現存する本堂が完成した。
現在当寺院には江戸氏(後の喜多見氏)の歴代の墓があり、江戸時代に造られた山門や鐘楼堂、さらには喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳までの古墳がある。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (最終更新 2017年8月9日 (水) 08:48 UTC 版) より)

なお、「東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス」で慶元寺古墳群の地図を検索できます。

次大夫堀(じだゆうぼり)公園

公園のなかにある「民家園 (次大夫堀公園民家園)」 (営業は9:30~16:30) は、毎週月曜日は休園で入園できず、外から眺めただけですが、昔の農村風景を感じさせてくれます。
案内の説明によると、「世田谷の農村風景の典型的なイメージと昔ながらの小川を復元したのが次大夫掘公園。公園名は小泉次大夫が昔この地域の用水を確保するために作った堀の名にちなんで」つけられたそうです。「次大夫堀は、江戸の初期、小泉次大夫の指導で開削された農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見あたりでは、半ば埋められごみ捨て場のようになってしまいましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流れを復元しました。本物の水田をつくり、そこに江戸時代後期の古民家と土蔵、納屋、消防小屋などを移築復元したのがこの民家園です。昔の世田谷の農家の暮らしをまるごと復元」しています。
なお、小泉次大夫については、金子忠司著『二ヶ領用水開削者 小泉次大夫物語』が「フィクションで物語を展開」していて面白かったのですが、残念ながらリンク先が不明になってしまいました。簡単ですが、「かわさき区の宝物シート > 小泉次太夫」に説明があります。

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