亀戸七福神:平井駅~東京スカイツリー(081)-6km

東京スカイツリーがだんだん大きく見えてくる、2つの七福神めぐりです。

正月の亀戸七福神めぐりの期間は、「色紙・絵あわせ台紙・絵あわせ用御神体(お姿)のお授けは元旦から1月7日までです (有料)。ご開帳は元旦から行われていますが、終了日は社寺により異なります (東覺寺は1月3日まで常光寺は1月15日までその他の社寺は1月7日まで)」(江東おでかけ情報局TOP  > イベント > キーワード「亀戸七福神」からご確認ください) です。

亀戸七福神めぐり自体の距離は約2キロメートルですが、ここでは、興味深いポイントを加えた約6キロメートルのコースにしました。正月以外でも、季節に応じてウォーキングをお楽しみください。

  1.  立花大正民家園では、1か所で七福神めぐりができます。しかも、年末年始(12月29日から1月3日まで)を除き、1年じゅう拝観できます。
  2.  亀戸天神社はフジの名所で、4月下旬から5月初めにかけては、境内一面、紫色でいっぱいになり、藤まつりが行われます。
  3.  亀戸天神社では、2月に梅まつり、10月末から11月にかけて菊まつりが行われ、にぎわいます。
  4.  北十間川にかかる橋から、川面にうつる東京スカイツリーの長い影を見ることができます。東京スカイツリーは、平井駅をスタートしてすぐ遠くに見え、だんだん大きく見えてきます。そして、ゴールの東京ソラマチからは、頭を真上に向けてながめることができます。写真をまとめてみました ⇒ 亀戸七福神:大きくなる東京スカイツリー をごらんください。

コース紹介】  JR平井駅着ー平井聖天―諏訪神社・富士塚―[旧中川]―立花大正民家園(七福神)―白髭神社ー東漸寺―北向地蔵尊―[旧中川]―[北十間川]―常光寺(寿老人・延命長寿)―東覺寺(弁財天・芸道富有)―香取神社(大国神・有富蓄財/恵比寿神・愛敬富財)―普門院(毘沙門天・勇気授福)―亀戸天神―[横十間川]―龍眼寺(布袋尊・清廉度量)―江東天祖神社(福禄寿・人望福徳)―[北十間川]―十間橋―西十間橋―押上駅前京成橋―東京ソラマチ―東京スカイツリー(押上駅スカイツリー前駅)

コースの写真は、⇒ 081-亀戸七福神:平井駅~東京スカイツリー をご覧ください。
東京スカイツリーの写真は、⇒ 081_01-亀戸七福神:大きくなる東京スカイツリー をご覧ください。

コース地図をご覧ください。

コース距離です。

ポイント区間距離累計距離
平井駅  
平井聖天324m324m
諏訪神社・富士塚82m406m
立花大正民家園420m826m
白髭神社334m1,160m
北向地蔵尊189m1,349m
北十間川774m2,123m
常光寺(寿老人・延命長寿)674m2,797m
東覺寺(弁財天・芸道富有)402m3,199m
香取神社(大国神・有富蓄財/恵比寿神・愛敬富財)202m3,401m
普門院(毘沙門天・勇気授福)407m3,808m
亀戸天神550m4,358m
龍眼寺(布袋尊・清廉度量)388m4,746m
江東天祖神社(福禄寿・人望福徳)304m5,050m
東京ソラマチ1,299m6,349m

コースポイントの説明

2019年1月15日に、このコースをSさん、Iさん、Kさんといっしょに歩いてきました。Kさんの感想も加えて、以下、コースポイントを紹介します。

平井聖天 (燈明寺)

新義真言宗の寺院で、聖天堂は古くから関東三聖天(埼玉県妻沼聖天・江戸浅草待乳山聖天)の一つとして知られています。平安時代の草創と伝えられていますが、江戸時代中期には荒廃し享保年間(1716-35年)に恵祐法印(えゆうほういん)によって再興されました。関東大震災(1923年)では本堂全壊という災禍にあいましたが、当時の関澄道貫主によって京都宇治平等院風の三屋根(みつやね)造りの優雅な本堂が建立されました。(江戸川区教育委員会の案内板 より) 毎年、2月の節分会に柴燈護摩(火渡り)を行っています。

境内の茶室は、澄道貫主と親交のあった伊藤左千夫の設計によるもので、正岡子規ら明治の文士たちが集ったそうです。

諏訪神社・平井の富士塚

諏訪神社は、燈明寺の恵祐法印が、出身地である信州の諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられます。

境内北隅に移築された旧本殿(現在、稲荷神社)は天保14(1834)年、下平井村の人びとによって再建され、外壁彫刻が江戸後期の神社建築の過飾的な特色をよく伝え、とくに龍や唐獅子などの彫刻は精緻です。

境内北西側にある富士塚は、大正9年ごろ、下平井村の丸富講の人びとによって造られました。(江戸川区教育委員会の案内板 より)

旧中川

旧中川は、1924年、開削された荒川放水路に注水を開始したことによって分断された中川の下流部分で、全長6.68キロメートルの一級河川です。1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3,000人以上が犠牲となりました。1999年に「旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日夜、ふれあい橋付近で行われています。

立花大正民家園(旧小山家住宅)

大正6(1917)年建築の旧小山家住宅は、関東大震災や東京大空襲をまぬがれ、農家と町屋の雰囲気を今に伝えている住宅です。庭園見学時間は9 :00~16:30、住宅内見学時間は12:30~16:30、休館日は年末年始(12月29日から1月3日まで)で、入館料は無料です。管理人の方のお話によると、この部屋の天井には人が立って歩ける空間があり、中川の洪水のときに避難できるように建てられているとのこと。

庭園には、七福神像が置かれています。昭和16年ごろ、当時の小山家当主が買い揃えたものだそうです (並んでおかれている恵比須、大黒は、平成元年ごろ民家園に仲間入り)。「奥行きのある庭には石像の七福神さま全てを網羅し、小宇宙を呈して」います (Kさん)。

白髭神社

御祭神は猿田彦大神。「葛西誌」によると、天和2(1682)年、徳川綱吉の時代に当時の庄屋が現在地の中川のほとりに社地を定め、里人を導いてこの神社を勧進したとされています。社殿の左側に、通り抜けができない鳥居が建っています。この石像明神鳥居は、柱に安永9(1780)年の刻銘があって、以前は長い参道の中ほどに、二之鳥居として建っていました。

北十間川

総延長3.24キロメートルの荒川水系の一級河川。江戸時代、明暦の大火後の本所開発の一環として、農業用水のために開削された運河で、墨田区の中央部を旧中川から隅田川まで左右に横断しています。本所の「北」を流れる、川幅が「十間(18メートル)」の川であることから名づけられたそうです。

常光寺(寿老神)

曹洞宗の寺院で、本尊は、行基作と伝えられている阿弥陀如来です。江戸六阿弥陀詣の6番目霊場で、延宝7(1679)年の銘があり、正面に「南無阿弥陀佛」、側面に「自是右六阿弥陀道」と刻まれた「六阿弥陀道標」が建っています。六阿弥陀詣とは春と秋のお彼岸に行基作の6体の阿弥陀像を参詣することで、江戸時代の人にとっては行楽の一つでした。巡拝地は順に、西福寺(北区)、恵明寺(足立区)、無量寺(北区)、与楽寺(北区)、常楽院(調布市に移転)、当寺です。ホームページは 曹洞宗 六阿弥陀 西帰山 常光寺 です。

東覺寺(弁財天)

真言宗の寺院で、弁財天は門を入って右にあるお堂に祀られています。

香取神社(恵比寿神大国神)

天智天皇4(665)年、中臣鎌足が東国へきたとき、当時は島だったこの地(亀島)に船をよせて、太刀を一振りおさめて旅の安泰を祈ったことが始まりであると伝えられる墨田区内で最も古い神社です。

平将門の乱のとき、追討使の俵藤太秀郷が戦勝を祈り、乱を平定した後、弓矢を奉納しました。この古事にちなんだ「勝矢祭(かちやさい)」が、毎年5月5日に武者行列が出て、盛大に行われます。

また、歴代の天皇をはじめ源頼朝、徳川家康などの武将たち、剣豪塚原卜伝、千葉周作をはじめとする多くの武道家たちの篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていた由来から、いまでは「スポーツ振興の神」として、スポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れています。

3月はじめには「亀戸大根収穫祭・福分けまつり」が行われます。亀戸大根は江戸末期、同神社周辺で栽培が始まった、長さ約30センチメートル、太さ約5センチメートルぐらいの小振りで強い辛みが特徴の大根です。宅地化がすすんで大正末期ごろから姿を消してしまいましたが、現在、地元の小学校で栽培するようになっています。

香取神社のホームページは、スポーツ振興の神 亀戸 香取神社で必勝・合格祈願! です。

普門院(毘沙門天)

真言宗智山派の寺院。元和2(1616)年に移転してきたと伝えられています。その移転の際、梵鐘を隅田川に落としてしまい、そこが「鐘ヶ淵(墨田区)」の地名の由来となったと言われています。

境内にはいると、全体に薄暗く、荒れたかんじがあります。本堂は正面の階段を上ったところに柵があって、テーブルや椅子が積み上がり封鎖されています。本堂裏を覗くと、長い間人が立ち入った様子もなく、荒れ果てています。しかし、境内や墓地への道には雑草もなく、どなたかが手入れはつづけているようです。

本堂の向かいに毘沙門堂があります。その奥の墓地には「伊藤左千夫」の墓などがあります。「《野菊の墓》の作者、伊藤左千夫の墓は、その墓石に刻まれた名前の文字のさりげなさが作品の如く優しい人柄をにじませていました」(Kさんの感想)。境内には、昭和20 (1945) 年3月10日の東京大空襲で亡くなった方を供養する「戦災殉難慰霊供養の碑」が建っています。昭和20年に亀戸駅前に木碑として建てられ、翌年石碑となり、昭和30年に区画整理で移設されました。

時も忘却も我が泪を乾すまじ

この碑は昭和二十年三月十日我国で最初の大量の犠牲者を出した大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑であります

昭和二十九年晩秋都市區割整理に依て奉賛会は普門院の浄域を擇んで移転し平和の礎となつた貴い人々の冥福を永遠に祈るために奉安しました

  昭和三十年三月十日 誌

   

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります

本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります

  昭和五拾貮年参月拾日  亀戸町会連合会

亀戸天神

「赤い鳥居をくぐった亀戸天神は朱塗りの二つの太鼓橋が池に映え、その上に藤棚が配されています。5月、6月の藤の花が満開の時期に参詣者で一杯になる庭がよく放映されるが、江戸っ子達の活気溢れた門前町は現在もそのまま息づいています。梅の時期にはまだまだでしたが、蝋梅が芳しい香りを放っていました。」(同行者の感想)

亀戸天神は、菅原道真をお祀りし、江戸時代から学問の神様として信仰を集め、ウメフジの名所として親しまれてきたそうです。寛文2(1662)年、九州太宰府天満宮の神官が、道真ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、お祀りしたのがはじまりと伝えられています。

毎年1月24・25日の「うそ替え神事」、2月の「梅まつり」、4月下旬から5月初めにかけての「藤まつり」、8月下旬の「例大祭」、10月末から11月の「菊まつり」には、大勢の参拝者でにぎわいます。

亀戸天神社のホームページは、亀戸天神社|公式ホームページ です。

横十間川

万治2(1659)年に開削された一級河川の運河で、江戸城に対して横に流れ、川幅が「十間」あったことから名づけられたそうです。墨田区・江東区の区境を流れ、北十間川から南に流れています。

龍眼寺(布袋尊)

天台宗の寺院で、「萩寺ともいわれ、尼寺のような清潔で優しい寺が印象的」(Kさんの感想) です。

創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。

その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。

江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称 “萩寺” として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。

境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉、落合直文など文人墨客の句碑が昔の風情を偲ばせます。

龍眼寺ホームページ より)

境内には四季折々の花が咲きますが、とりわけ枝垂れ桜、秋のお彼岸すぎに咲くハギが見事です。

なお、観世音の夢のお告げは「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」というもので、龍眼寺へと改名(応永10年)したさい、御神体は天祖神社として祀られた、とあります(境内案内板より)

天祖神社(福禄寿)

もとは柳島村の鎮守で、僧良博が創建したと、龍眼寺の言い伝えにあります。しかし、天祖神社のホームページ(江東天祖神社|亀戸七福神福禄寿)には、

この地域は、埋め立てが進められる以前、湾の奥にあたり小島が点在する様な所でした。近所の地名に大島・京島・向島などの島の付く地名が多いのはこのせいで、そのひとつが柳島、その島の総鎮守が当社である。

そんな訳で、往年度重なる大洪水大震災、先の大戦等で、文献等流失・焼失し現在の記録、古老の言い伝えの社殿に寄れば、創建は推古天皇御代(約千四百年前)、厩戸皇子(聖徳太子)作のご神像を御神体として祀る。

天正年間(1573-91年)悪病が大流行したとき、織田信長がこの神社で流鏑馬の行事を行わせたところ、たちまち収まったので、以来病気を治す神社として有名になりました。現在でも毎年9月15~18日の例大祭の1日、やぶさめ神事(子どもによる歩射(びしゃ))が行われています。

境内の隅にある鳥居の奥に、円柱状の「招魂碑」が建っています。

 招魂碑について  昭和三十年三月十日建立

東京大空襲(昭和二十年三月十日)の折、東京は大空襲に見舞われ、氏子一帯も火の海と化しました。

その際、焼失を免れた現社殿にて数百の命が助かり、町中ではその何倍もの命が失われました。亡くなられた方の亡骸は普門院に安置され、御魂はこの地に祀られました。

十年の時を経て前一の鳥居の柱(片方)を用い建てられたのが、この石碑です。もう一本は復興記念の碑(手水舎北脇)として、平和の祈りと共に再び建立されました。

現代の豊かさも、過去のこうした犠牲の上に成り立っています。

我々もこのような史実を忘れずに後世に伝え、未来の為に感謝の心と平和の祈りを絶やさずにいたいものです。

宮司  

北十間川

旧中川と隅田川をつなぐ北十間川は、明治になって業平橋駅で鉄道貨物と結ばれ、舟による下町の物流に重要な役割を果たしていましたが、戦後、舟運は衰退しました。一時は都内私鉄の貨物駅としては最大の取扱量を記録したこともある東武鉄道・業平橋駅は、2012年の東京スカイツリー駅開業にあわせて「とうきょうスカイツリー駅」と改称されました。

東京スカイツリーの細長い姿が、北十間川にすっぽり映るのを見ることができます。「平井から押上までの道のり、どこからも東京スカイツリーを右に左に見ながらの行程で、北十間川の川面にその勇姿が映し出される頃、この行程は終盤。6キロ余りの程よい距離が良い」というKさんの感想でした。

東京スカイツリー

2008年7月14日に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月29日に竣工した世界一の電波塔です。途中、2009年10月16日に計画を修正し、高さ634メートルとすることを発表しました。タワーの水平方向の断面は地面真上では正三角形ですが、高くなるほど丸みを帯びた三角形に変化し、高さ320メートルで円となっています。概観は日本の伝統建築の発想を駆使し、反りの美的要素も盛り込まれているため、タワーを見る方角によっては傾いているようにも、裾が非対称になっているようにも見えます。

東京スカイツリーを中核に、東京ソラマチ、東京スカイツリーイーストタワー、コニカミノルタプラネタリウム “天空” in 東京スカイツリータウン、すみだ水族館といった施設から構成される複合施設東京スカイツリータウンは、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)とうきょうスカイツリー駅と、京成押上線・都営地下鉄浅草線・東京メトロ半蔵門線・東武スカイツリーラインの押上駅に直結しています。

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