忍城・さきたま古墳群・古代蓮の里を歩く (067)-7~12km

B) 忍城

B) 忍城の写真は、コチラ をご覧ください。

(05)忍城・行田市郷土博物館―(11)忍城バスターミナル観光案内所―(12)水城公園―(15)佐間天神社》【1,561m+α】

忍東照宮から歩道橋で県道を渡ったところに、忍城址への入口があり、入ると正面は行田市郷土博物館です。
忍城御三階櫓には、博物館にはいっていきます。
博物館で行田市の歴史を学んでから、このあとのコースを歩くことをお勧めします。
忍城御三階櫓の手前の門から出てお堀を渡り、次へと進みます。

忍城 (別名「浮き城」) 址

忍城は、室町時代の文明年間 (1469~86年) 初めごろ、成田親泰によって築かれました。
北と南を利根川・荒川に挟まれた扇状地にある忍城は、点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造で、一度も落城しなかった要害堅固な城です。
戦国時代の終わりの1590 (天正18) 年、豊臣秀吉の関東平定に際して、石田三成らによる水攻めに耐え抜いたことから「浮き城」とも「亀城」とも呼ばれています。このとき三成は、本陣を丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行いました。
成田氏は、関ヶ原の戦いの後は徳川氏に属しました。
明治6(1873) 年「廃城令」によって城は取り壊され、現在の忍城御三階櫓は再建されたものです。
忍城は、2012年に公開され、累計興行収入28.4億円を記録するヒット作となった映画『のぼうの城』(シネマトゥデイ「映画『のぼうの城』本予告編」) の舞台です。

忍城

行田市郷土博物館

行田市郷土博物館には多くの実物資料が展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化が分かります (行田市ホームページ「郷土博物館」)。
常設展示には、中世の行田、近世の行田、足袋と行田、古代の行田という4つのコーナーがあります。
忍城御三階櫓につながっていて、4階の展望室から市内を眺められますが、窓が狭くて見えにくいです。

開館時間:午前9時~午後4時30分(最終入館受付午後4時まで)
休館日:毎週月曜日(祝日・休日は開館)/祝日の翌日(土曜日・日曜日は開館)
毎月第4金曜日(テーマ展・企画展の開催中は開館)/年末年始/その他の臨時休館日
入館料:おとな200円

消火手榴弾

忍城御三階櫓の前の門をくぐり、お堀を渡って右に御三階櫓を眺めながら少し行くと、お堀の向かいに雰囲気の良い小径があり冠木門へ抜けられます。
ここから直接、忍城バスターミナルへ向かってもいいのですが、案内マップでは行田市産業文化会館 (ホームページ) をまわるコースを紹介しました。文化会館アートギャラリーで興味ある展示を行っていることがあります。

忍城バスターミナル観光案内所

観光案内、観光レンタサイクルの貸出・返却、無料Wi-Fi、土産販売があります。
行田市内循環バス 観光拠点循環コース「JR行田駅方面行」に乗車し、15分ぐらいでJR行田駅へ行くことができます。
トイレと観光案内所の間に、「忍城十五門之内 沼橋御門跡」の石碑が建っていて、忍城の範囲が分かります。

開館時間:9時30分~16時30分 ※冬期(12/1~2月末)は10時~16時
開館日:毎日 (12月29日~1月3日は休館

忍城バスターミナル観光案内所

忍城バスターミナル観光案内所の西側から通りに出て、左へ道なりに進むと、水城公園への小さな入口です。
商工会館、バスターミナル、水城公園一帯は、昔から沼が広がり、忍城防衛の役割を果たしていたところです。

水城公園

忍城の外堀の沼を利用して整備された水城公園には「しのぶ池」や、広い公園通りを渡ると「あおいの池」などがあります。
夏、あおいの池にはホテイアオイが、薄紫色の絨毯を敷きつめたかのように美しく咲きます。

公園通りに近いところに、ひときわ目立ち、黄緑色の洋風建物がポツンと建っています。
ここは大正11年(1922年)建設の「旧忍町信用組合店舗(VERT CAFÉ)」です。
足袋商店主たちが出資して創業し、足袋産業の発展を支えた地元金融機関の創業時の店舗を移築したもので、市内では数少ない洋風木造建築としても貴重な存在です。
現在は、市内イタリアンのピタパンや行田在来青大豆を使ったゼリーフライ、お豆腐、古代米カレーなど行田の食材を使った行田の魅力いっぱいのメニューが特徴の「VERT CAFÉ(ヴェールカフェ)」(「指定文化財|旧忍町信用組合店舗 ヴェールカフェ」ホームページ) となっています。
【営業時間】 12:00-16:00/【L.O】15:30 (火・水・木曜休) TEL:048−556−4330(カフェ直通)

水城公園

水城公園を、VERT CAFÉから奥に向かってすすむと、田山花袋 (1871-1930年) の「田舎教師の文学碑」が建っています。
1909 (明治42) 年に出版された小説『田舎教師』は埼玉県北部 (熊谷、行田、羽生等) を舞台に、中学校教師である主人公・清三を通して、当時のこのあたりの様子をリアルに描いています。

家は行田町の大通りから、昔の城址のほうに行く横町に[#「横町に」は底本では「桜町に」]あった。角かどに柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。棟割長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子に糸のような細い雨がはすに降りかかった。隣には蚕の仲買いをする人が住んでいて、その時節になると、狭い座敷から台所、茶の間、入り口まで、白い繭でいっぱいになって、朝から晩までごたごたと人が出はいりするのが例であるが、今は建てつけの悪い障子がびっしゃりと閉しまって、あたりがしんとしていた。

田山花袋『田舎教師』(青空文庫・図書カード:No.1668 より)

さらに奥へ進むと、佐間天神社です。

佐間天神社・佐間口

佐間天神社の創建について、境内掲示板には以下のように書かれている。

佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。

境内掲示板による

何度読み返しても、私には理解不能です。「佐間天神社の創建は……天神坊を出口としたと伝えられている」の意味が分からない。「没沢」とは何か? 「その天神坊を慈眼山安養院の守護神として」の意味も分かりません。私なりになんとか解読してみました。

天神社の創建は、忍城主の成田氏が忍城を築いたとき (1469~86年頃) に天神坊を出口とし、ここに佐間村の新義真言宗慈眼山安養院を別当として勧請したことによる。

本殿裏に「天神社別当 慈眼山安養院跡 天神社建之」という石碑が建っています。

天正18 (1590) 年に石田三成らの軍勢が忍城を攻めたとき、忍城主・成田氏長の家臣正木丹波守利英が「佐間口」の守りを固め死闘を繰り広げたと伝えられていますが、この佐間口とは天神社付近です。

天神社境内で目を惹く9本の欅の巨木群は、いずれも推定樹齢400年以上です。
「佐間学校跡」と刻まれた石碑があります。明治になるとここに佐間学校が設置されました。

佐間天神社

A) 移動区間-1
B) 忍城
参考) 足袋蔵めぐり
C) 移動区間-2
D) 古墳群
E) 移動区間-3
参考) 古墳博物館から「さきたま緑道」を歩いてJR北鴻巣駅へ
F) 古代蓮の里

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