小塚原から吉原周辺を散策しました。

新吉原花園池(弁天池)

江戸時代から明治、昭和まで、華やかな首都の周辺部にあって、「陰」の部分をになってきた地域を、現地に詳しいガイドの案内であるいてきました。5km、3時間の、濃密な散策でした。
この地域に最後に訪問したのは、2003年1月に実施した杉並ワンデーウォークの会の「浅草七福神」例会でした。
日本堤・山谷と吉原とをつなぐ「いろは会商店街」のアーケードがなくなっていたのには驚きました。2017年に撤去されたそうです。 かつては大勢の人でにぎわい、昼間からお酒を飲んでいる人も多かった通りでした。
機会をみて、今回あるいた地域を含めたコースをつくりたいと思いますが、とりあえず、立ち寄りポイントを中心にご紹介します。

コースマップ

小塚原

松尾芭蕉像
松尾芭蕉像
「松尾芭蕉:奥の細道 矢立初めの地」像(南千住駅前)
回向院

小塚原の刑場 で1771年、罪人の腑分けを見学したことが契機となって、杉田玄白・前野良沢らは『解体新書』の翻訳を志しました。
旧日光街道沿いにある浄土宗の回向院は、小塚原の刑場で刑死した罪人を供養するために1667年、本所回向院の住職が建てたお堂がはじまりです。
小塚原刑場は1651年に創設され、1873年に廃止されるまで、20万人以上が処刑されたそうです。歌舞伎で有名な罪人の墓 や、小伝馬町の牢屋敷で処刑された松田松陰の墓碑があります。
また、最近亡くなられた有名人の墓もあります。

中:観臓記念碑  右:吉田松陰の墓石
カール・ゴッチさんは、2007年に亡くなられたプロレスラーで、プロレス・コーチとしても活躍されました。
延命寺

1982年、 小塚原刑場跡地に小塚原回向院から分院独立した浄土宗の寺院です。JR常磐線の高架と東京メトロ日比谷線の高架にはさまれた場所です。
境内にある高さ約4mの「首切地蔵」は、処刑された人たちの菩提を弔うため1741年 、刑場入口に造立されました。よく見ると、大きな石を組み合わせて出来ています。3・11東日本大震災のとき、組まれていた石がずれてしまい、修復されました。

首切地蔵
左:浄土宗のお寺ですが、他宗派のお題目が書かれています。/右:首切地蔵をよく見ると、石を組み合わせていることが分かります。
小塚原処刑場跡・隅田川駅 

旧日光街道は南千住駅の西側を南北に通っており、自動車は線路の下をくぐっていけますが、人や自転車は、JR常磐線と東京メトロ日比谷線の高架下をくぐり、さらにJRの線路の上を長い跨線橋で越えることになります。
その跨線橋の上から、東を眺めるとJRの線路が何本も見え、北東のほうには都バス車庫が見えます。この部分が、むかし小塚原の処刑場があった場所です。
また、西を眺めると、JRの線路が、扇の骨のように広がっている様子が見えます。ここはJR貨物とJR東日本の駅ですが、旅客設備はない貨物輸送専門の隅田川駅です。もともとは常磐炭田からの石炭を東京に運ぶため1896年に開業し、木材、砂利なども東京市街地に、隅田川の水運と連絡して輸送しました。このために、水路が隅田川から引き込まれていました。なお、「隅田川駅貨物フェスティバル」が毎年9月最終日曜日に開催されています。鉄道ファンホーム > 鉄道イベント などで開催情報をご確認ください。

左:処刑場跡
下:隅田川駅

旧日光街道 (吉野通り) 沿い

東京スカツリーを正面に見ながら、旧日光街道に沿って浅草方面に歩いていくと、小さなホテルが目につきます。右側の路地にも、ホテルの看板が見えます。
南千住駅に近いこのあたりは、日光街道の最初の宿場で、江戸時代から木賃宿が集積していました。明治になると、隅田川駅で働く大勢の労働者のための簡易な宿泊所がさらに出来てきました。また、吉原遊郭に客を送迎する人力車の車夫なども集まっていました。
明治通りとの交差点「泪橋」から先が、かつて「山谷」という地名だった場所です。
戦後、復興から高度成長期にかけて、建築・土木現場で働く日雇い労働者が集まる青空労働市場「寄せ場」が出来、彼らが宿泊する本建築の簡易宿泊所が多く建てられ、「ドヤ街」(やど を逆さに読む) が形成されました。
バブル崩壊とともに求人が急減し、町は衰退していきますが、東京で安く宿泊したい外国人バックパッカーが口コミで集まるようになり、彼らの志向に対応するように変化する宿も増え、現在は、安くて交通便利な宿泊地として、地方から東京に出張や観光で来る日本人にも人気の宿泊地になってきています。

*泪橋は、思川(おもいかわ=現在は暗渠)に架かっていた橋で、罪人たちはこの橋を渡って小塚原の刑場に向かいました。罪人たちにとってはこの世の別れ、家族や知人にとっては今生の別れの場所でした。なお、石神井川は王子でいちど堰き止められ、石神井用水として東に流れていきますが、「三ノ輪まできたところで流れがいくつかに分かれ、北東方向には石浜川として、南東方向の流れは思川として明治通りに沿い泪橋を抜け白鬚橋付近で隅田川に注ぎ、もう1つは日本堤沿いに山谷堀」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) に通じました。

日本堤交番
かつて「マンモス交番」があったところ

かつてのマンモス交番(山谷地区交番)は、小さい警察署並みの規模がありました。
現在は移転して、名前も町名変更に従い、日本堤交番になっています。

日本堤

いろは商店街

日本堤交番からあしたのジョー像までのいろは会商店街は、山谷地区のメインストリートで、2017年に撤去されるまでアーケードがありました。左上の写真は、現在の商店街です。開いている店は少なく、地方都市のシャッター街のようです。ここは、現在は日本堤という町名になりました。

土手通り

土手通りと呼ばれているこの通りは、1927年に取り壊された日本堤があったところです。日本堤は、かつて湿地だったこのあたりに、「江戸幕府による荒川をはじめとする治水事業により元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から北西方向へ箕輪浄閑寺にかけて」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 築かれました。
1657年、江戸三大大火のひとつ明暦の大火が起き、これをきっかけに江戸の都市改造がなされ、大名や寺社の移転、市街地の拡大や郊外への移転が進みました。人形町にあった遊郭街・葭原 (よしはら) も、日本堤の南側に移転 (日本橋七福神を歩く:東京駅から門前仲町駅まで(123)11.5km) し、吉原が形成されました。この日本堤は、浅草方面から吉原に通う客でにぎわいました。
あしたのジョー像と見返り柳の碑との間に、1905年創業の「桜なべ 中江 浅草吉原本店」と1889年創業の「土手の伊勢屋」が軒を並べ、「馬肉の千葉屋」は吉原土手という形容を看板に書いています。

吉原

大門跡おはぐろどぶ・仲之町通り

見返り柳の碑から吉原大門に向かう道は、曲がりくねっていて、先が見とおせない構造になっています。江戸時代、お忍びで通う旗本や大旦那たちを人目につかなくさせるためだったようです。
湿地帯だったこの地に、人形町から遊郭を移転させる際、土盛りをしました。そして、遊郭の周囲には、「お歯黒どぶ」という堀をつくって、ここに汚水・廃水を流しました。遊女の逃亡を防ぐためでもありました。現在、おはぐろどぶの跡は、遊郭だった区画より1mぐらい低い道路になっていて、かつての痕跡を残す場所もあります。

左:おはぐろどぶより高く土盛りした痕跡。
上:痕跡のある場所の先にある、遊郭専門書店。

大門跡を右に、おはぐろどぶ跡の道路を歩くと、「カストリ書房」という遊郭に関する専門書店があります。気軽に寄ってみましょう。
細い路地として残っている区割りの痕跡を抜け、メインストリートである仲之町通りを歩き、華やかだったころの建物を眺めて歩くと、右側に吉原神社があります。

吉原の区画割りと、往時の痕跡を残す路地。
吉原神社
かつて吉原遊郭の四隅にあった稲荷を吉原神社に集めています。
新吉原花園池(弁天池)跡

明暦の大火の後、池が点在している湿地帯を埋め立てて吉原遊郭はつくられましたが、残っていた池の畔に、いつしか弁財天の祠が祀られ、信仰を集めるようになっていきました。
大正12(1923)年、関東大震災が東京下町を襲います。建物が倒壊し、火の手もあがったのでしょう。 逃亡を防ぐために大門が閉じられ、 逃げ場を失った遊女たちは、この弁天池に飛び込み、490人が溺死するという悲劇が起きました。亡くなった遊女たちを供養するために、観音像が建てられました。

鷲(おおとり)神社

「おとりさま」と親しまれている鷲神社は、酉の市発祥の神社です。毎年、酉の市の日には、開運・商売繁昌のお守りとして熊手を求める参拝客で、境内は立錐の余地がなくなります。

飛不動

空飛ぶお不動様=飛不動は、航空にかかわる方々の信仰を集めてきていましたが、最近は、ゴルフの飛距離が伸びるようお祈りに来られるかたも増えてきたそうです。

浄閑寺
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生まれては苦界
 死しては浄閑寺

写真は、新吉原総慰霊塔

山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとり淋しく人生を終る人が数多くいます。……ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。

写真は、ひまわり地蔵尊

東京さくらトラム (都電荒川線)・三ノ輪橋停留所

地下鉄の日比谷線・三ノ輪駅ができるまで、日光街道にある都電が、この地域の主な公共交通手段でした。ターミナルである三ノ輪橋停留所の周辺には、たいそうな賑わいのアーケード商店街が出来ていました。
いまでも、総菜屋さんや八百屋さん、お菓子が安いお店、下町の味を残す食事処や居酒屋が元気に営業していて、ぶらぶら歩いて楽しい「ジョイフル三ノ輪」商店街です。

東京さくらトラム (都電荒川線)・三ノ輪橋停留所

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