日本橋七福神を歩く:東京駅から門前仲町駅まで (123)-11.5km

日本のど真ん中、日本橋から深川まで、江戸の繁華街を歩きます。
「日本橋七福神」を歩いてみますと言っても、正月7が日をすぎた日本橋七福神だけ歩くのでは、正直なところあまり楽しくはありません。7が日のあいだは街も華やぎ、七福神の各神社では御開帳で七福神の神様を拝め、御朱印を受けることができますが、それを過ぎると、殺風景なオフィス街のビルの谷間にある小さな神社をまわることになります。また、距離も3.5kmほどで、歩くには物足りません。
そこで、「日本橋七福神めぐり」をあいだにはさみつつ、広く日本橋一帯の史跡をたずね、江戸という街の成長と、現代日本とのつながりを見ながら、深川まで足を伸ばして歩いてみます (約11.5km)。日本橋本町や人形町には老舗のお菓子屋、食事処などがたくさんあり、寄り道するのも楽しみです。
コース概要
(01)JR中央線・東京駅八重洲北口 ⇒ (02)江戸城外堀の石垣 ⇒ (03)一石橋迷子しらせ石標 ⇒ (04)日本銀行本店本館 ⇒ (05)三井本館/日本橋三越プレート ⇒ (06)西河岸橋 ⇒ (07)日本橋を眺めるテラス ⇒ (08)日本国道路元標複製 ⇒ (09)三浦按針旧居跡 ⇒ (10)薬種神社 ⇒ (11)福徳神社 ⇒ (12)福徳神社からの参道 ⇒ (13)長崎屋跡 ⇒ (14)夜半亭(与謝蕪村居住地跡) ⇒ (15)時の鐘通り ⇒ (16)十思スクエア(小伝馬町牢屋敷展示館) ⇒ (17)十思公園(トイレ) ⇒ (18)大安楽寺(江戸伝馬町処刑場跡の碑) ⇒ (19)身延別院 ⇒ (20)小津史料館 ⇒ (21)宝田恵比寿神社 ⇒ (22)椙森神社 ⇒ (23)堀留児童公園(トイレ) ⇒ (24)出世稲荷神社 ⇒ (25)人形町末廣跡 ⇒ (26)玄冶店跡 ⇒ (27)大観音寺 ⇒ (28)昔の雰囲気の路地 ⇒ (29)よし梅芳町亭 ⇒ (30)小網神社 ⇒ (31)西郷隆盛屋敷跡 ⇒ (32)鯨と海と人形町 ⇒ (33)谷崎潤一郎生誕地 ⇒ (34)茶ノ木神社 ⇒ (35)水天宮(トイレ) ⇒ (36)松島神社 ⇒ (37)多和田歯科 ⇒ (38)末廣神社 ⇒ (39)日本橋消防署人形町出張所 ⇒ (40)笠間稲荷神社東京別社 ⇒ (41)日本漢方医学復興の地の碑 ⇒ (42)勧進帳の弁慶像 ⇒ (43)明治観音堂 ⇒ (44)浜町公園(トイレ) ⇒ (45)隅田川テラス ⇒ (46)隅田川テラス(新大橋をくぐる) ⇒ (47)隅田川テラス(日本橋消防署ボート係留所) ⇒ (48)清洲橋 ⇒ (49)清澄公園(トイレ) ⇒ (50)深川不動尊(トイレ) ⇒ (51)富岡八幡宮(トイレ) ⇒ (52)横綱力士碑・七渡弁天社・松尾芭蕉像 ⇒ (53)東京メトロ・門前仲町駅
(*ピンク色が日本橋七福神/太文字の数字は下記地図上の番号と同じです)
コースの写真
写真は ⇒コチラ から。
コース地図をご覧ください。
コース距離です。
ポイント | 区間距離 | 累計距離 |
(01) JR中央線・東京駅 | ||
(04) 日本銀行本店本館 | 560m | 560m |
(08) 日本橋 | 930m | 1,490m |
(11) 福徳神社 | 670m | 2,160m |
(17) 十思公園(トイレ) | 1,150m | 3,310m |
(23) 堀留児童公園(トイレ) | 1,150m | 4,460m |
(35) 水天宮(トイレ) | 1,750m | 6,210m |
(44) 浜町公園(トイレ) | 1,410m | 7,620m |
(48) 清洲橋 | 950m | 8,570m |
(50) 深川不動尊(トイレ) | 1,960m | 10,530m |
(53) 東京メトロ・門前仲町駅 | 800m | 11,330m |
コースの紹介
◇歩くところの歴史
天正18 (1590) 年、徳川家康が江戸にはいった当時、江戸城の東側は広大な湿地(汐入の干潟)でした。ここを埋め立てれば街が広がり、舟をつかった交通も便利になるので、家康は三十数年をかけて、現在の中央区全体と千代田区一帯の工事に着手しました。掘った土を両側の土地に積み上げ、低地をかさ上げしながら整地し、縦横に掘割を巡らしていきました。このときに出来た掘割の代表が日本橋川です。
1603年、江戸に幕府がおかれると各地の大名の江戸屋敷が建ち始め、城下町の整備が進むと、荷物の運搬や普請などに従事する人々や職人等が流入して、江戸の人口は急激に増えました。そうなると、大量の生活物資が必要となります。このため家康は、江戸城下へ出店する税金を免除して、京・大阪などから商人たちを集めました。こうして、日本橋を中心に商業地域が出来上がりました。日本橋から江戸橋にいたる河岸は、関東大震災で築地に移転するまでの約320年間、江戸の台所でした。また日本橋の東側一帯(人形町など)は、繊維街として発展しました。この地域は、朝は魚河岸、昼は歌舞伎、夜は吉原に人々が繰り出し、それはそれは賑やかな街だったようです。
なお、中央区のホームページの「地名由来」というページのなかに「日本橋地域」があります。今回歩くコースの「日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町地区」、「日本橋小舟町地区」、「日本橋蛎殻町地区」、「日本橋浜町地区」について、各町名の由来が載っています。
◇コース紹介
◆常盤橋門跡◆
寛永6(1629)年に築かれた江戸城防御のための門ですが、東日本大震災で危険な状態となった石組・石橋の復旧工事と常盤橋を明治10年の様子に戻す整備工事が行われており、現在は立ち入ることができません。(平成29年度完成予定)。(「東京都文化財めぐり」の「八重洲散策コース」)
◆日本銀行本店本館◆
日本銀行は明治15 (1882) 年に永代橋のたもとで開業しましたが、明治29(1896)年、江戸時代の「金座」があった現在の場所に日本銀行本店本館が竣工しました。設計者は近代建築の巨匠であり、東京駅赤煉瓦駅舎の設計も手がけた辰野金吾です。昭和7年に拡張された米国製の地下金庫は、厚さ0.9m、重量25t(扉15t、外わく10t)もあります。(「日本銀行」> バーチャル見学ツアー)
向かいには、「日本銀行金融研究所貨幣博物館」 があって、お金の歴史を展示しています (休館日は月曜日、ただし、祝休日は開館。開館時間9:30~16:30。入場無料)。
◆三井本館◆
江戸時代に三井財閥の基礎を築いた三井高利が呉服店「越後屋」を構えた跡地にあります。昭和4 (1929) 年に竣工した現在の建物は、当時のアメリカの最先端の設計と技術を用いて建てられました。地下の大金庫の扉は直径2.5m、厚さ最大0.55m、重量50tもあります。(➡「三井広報委員会 >三井の歴史 > 三井史を彩る人々 > 三井家の家祖 三井高利(みつい・たかとし)」/➡「三井広報委員会 > 三井の歴史>大正・戦前期:関東大震災で三井本館建替え」)
◆日本橋三越本店◆
三井本館の向かいにある日本橋三越本店は、同じく「越後屋」を起源として、その呉服店事業を引き継ぎ、その後百貨店となりました。「三越」の名は三井家と越後屋のそれぞれの頭文字を取ったものです。(➡「三井広報委員会 > 三井の歴史 > 江戸期:越後屋誕生と高利の新商法」)
◆西河岸橋◆
このあたりは、江戸時代から日本の商業・経済の中心地として、栄えてきたところです。明治24年に架けられた初代の橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町という地名だったので、「西河岸橋」と名づけられました。
なお、西河岸橋を渡る手前、日本橋から一石橋までの河岸地を、東京府は明治17(1877)年に「裏河岸」と命名しました。(中央区および中央区教育委員会「案内板」)
◆日本橋◆
西河岸橋を渡り、西河岸町だったところを通って日本橋南詰に向かうと、中央区観光案内所ができています。日本橋周辺の地図やグルメマップや、お江戸グッズのお土産もあります。観光案内所の裏にまわると、日本橋の全体を見られます。日本橋は、慶長8(1603)年に初代の木造橋が架けられ、翌年五街道の起点となりました。日本橋から東隣の江戸橋にかけての日本橋川沿いには魚河岸が賑わい、橋の南北には白木屋や越後屋などの商店が建ち並ぶ、江戸随一の繁華な場所でした。現在の橋は明治44(1911)年竣工、橋長49メートル、橋幅28メートルの石造2連アーチ橋です。橋の中央には道路の起点を示す道路元標が埋め込まれていますが、歩道からは見えにくいので、北西の橋詰に展示されているレプリカをご覧ください。日本橋を起点とする国道は、1号 (東海道)・4号 (日光街道)・6号 (水戸街道)・14号 (千葉街道)・15号 (第一京浜)・17号 (中山道)・20号 (甲州街道) の7つです。
◆三浦按針(あんじん)遺跡◆
三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指し、慶長5(1600)年、豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、家康・秀忠の外交、特に通商の顧問になりました。そして、相模国(神奈川県)三浦郡逸見に領地を、江戸に屋敷を与えられました。姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人だったからです。屋敷地があったこのあたりは、昭和初期まで「按針町」と呼ばれました。
按針と共にリーフデ号で漂着したヤン・ヨーステン(日本名「耶楊子(やようす)」)も江戸に招かれ、屋敷地近くの「八代洲(やよす)河岸」が現在の「八重洲」になりました。また、リーフデ号の積荷の大砲は、関が原の戦いや大坂の陣で活躍したそうです。(案内板より)
◆コレド◆
このあたりは老舗のお店もふくめ、1軒屋の飲食店がびっしり並んでいたところでした。
最近は再開発がすすみ、大きなビルが立ち並ぶようになり、その中心がコレドです。コレドは日本橋地区にある、三井不動産の複合ビルに設けられた商業施設で、COREDO日本橋(日本橋一丁目ビルディングの商業区画)、COREDO室町1(室町東三井ビルディングの商業区画)、COREDO室町2(室町古河三井ビルディングの商業区画)、COREDO室町3(室町ちばぎん三井ビルディングの商業区画)があります。
この日本橋室町東地区開発計画の一環として、2014年10月に「福徳神社」が完成しました。
◆福徳神社 (芽吹神社)◆
貞観年間(清和天皇・859~876年)には既に鎮座していたと伝えられています。武蔵野国豊島郡福徳村の稲荷神社として祀られていたので、「福徳神社」という社号がつけられたそうです。この神社は、源義家、太田道灌、徳川家康など武将の信仰があつかったそうで、二代将軍秀忠公は慶長19 (1614) 年正月8日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛しました。この時、古くからある椚(くぬぎ)の皮付きの鳥居に、春の若芽が萌え出たのを見て、別名を「芽吹神社」としました。江戸時代、富くじを発行し、社号もめでたいことから、「宝くじ当選祈願の神社」として知られています。(➡「福徳神社(芽吹稲荷)ウェブサイト」)
◆長崎屋跡◆
寛永18 (1641) 年の鎖国後、オランダは外国貿易を独占していました。長崎に駐在したオランダ商館長は年1回、将軍に拝謁して謝意を表するために献上品を携えて江戸へ来ましたが、その際、ここにあった薬種屋「長崎屋」を定宿としていました。商館長に随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ青木昆陽、杉田玄白や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。(案内板より)
◆夜半亭◆
元文2 (1737) 年に俳諧師・早野巴人(はやのはじん)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵です。ここには多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716~83年)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
◆時の鐘通り◆
道端の電柱に、「時の鐘通り」と書かれています。このあたりにも、昭和初期の建物が残っています。時の鐘通りは「うなぎ割烹 大江戸」のところで昭和通りにぶつかります。右へ曲がって「本町」交差点を通って迂回し、ふたたび時の鐘通りを進んでいくと、「十思スクエア別館」があります。
◆十思スクエア別館◆
中央区の施設で、「小伝馬町牢屋敷展示館」があり、年末年始等を除く毎日、9:00〜20:00開館しています。
◆十思公園◆
園内には、伝馬町牢屋敷跡、石町時の鐘、「吉田松陰終焉之地」の碑、江戸長唄三味線の二代目・杵屋勝三郎歴代記念碑があります。
伝馬町牢屋敷跡 伝馬町牢屋敷は、2,600坪を超える徳川幕府最大規模の牢屋でした。はじめは常盤橋門外に置かれ、慶長年間 (1596~1615年) にこの地へ移され、江戸町奉行の支配となりました。明治8 (1875) 年、市ヶ谷囚獄ができて廃止され、牢屋敷跡は十思公園・十思スクエア(旧十思小学校)・大安楽寺・身延別院などになっています。
石町時の鐘
江戸で最初の時の鐘は、「石町の時の鐘」であると言われています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
近くにオランダ人の定宿、長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたいはやされました。高さ1.7メートル、口径93センチメートルの和鐘です。(案内板より)
吉田松陰終焉之地
幕末の長州藩士・吉田松陰は、黒船艦隊が再来航した際に密航を企て、現在の小伝馬町の牢屋敷に送られました。後に萩に送還されるも、安政の大獄に連座して江戸に送られ、安政6 (1859) 年、小伝馬町の牢屋敷で処刑されました。松陰は、兵学、洋学に通じ、萩の「松下村塾」からは、木戸孝允(=桂小五郎)、高杉晋作、久坂玄瑞(くさか・げんずい;長州藩での尊王攘夷派の中心人物)、伊藤博文らを輩出しました。(案内板より)
杵屋勝三郎歴代記念碑
「杵屋」は江戸長唄三味線の家名。初代が、天保年間(1830~1844年)に武家から出て一派を創始。二代目が最も著名で、「船弁慶」「連獅子」「時雨西行」「安達ケ原」などの名曲を残しました。二代目が十思公園に近い馬喰町に住んでいたので碑が建てられました。(案内板より)
◆大安楽寺◆
この寺を開いた山科俊海大僧正は、明治初年、高野山から出て、六本木の五大山不動院の住職になったとき、たまたま伝馬町牢屋敷処刑場跡に燐火が燃えるのを見て、処刑されて成仏できない霊を弔い、当地で処刑された勤皇の志士の霊を慰めようと、明治8年に寺を建て、高野山より弘法大師を勧請し本尊としました。また、処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立しました。境内の左に祀られている「江戸八臂弁財天」は、三体あった江ノ島弁才天のひとつで、他は、江ノ島神社、岩本桜(江の島の岩本楼本館蔵)にあります。(案内板より)
◆身延別院◆
徳川三百年にわたって小伝馬町牢屋として怖れられていた牢獄は明治になって取り壊されましたが、その跡地は誰も住む人もなく放棄されていました。ここへ法華の道場を建立して大勢の亡霊たちを慰めようとした一団の人々が現れたのです。時の身延山久遠寺七十三世、新居日薩上人を中心にした三上人と、これを外護した強力な法華の信者たちは、明治14年、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪7円50銭で購って堂宇を建立することを決議し、明治16(1883)年、身延別院が創建され、身延山久遠寺から「日蓮聖人座像」(胎内に、明応6〔1497〕年7月の銘。通常は非公開) を迎え、本尊としました。境内にある「油かけ大黒天神」は、長谷川一夫、同しげ夫人が施主となって祀られました。(案内板および➡「小伝馬町 身延別院ホームページ」)
◆寳田惠比寿神社(恵比寿神)◆
寳田惠比寿神社の祭壇の中央に安置してある恵比寿神像は、運慶作と伝えられています。遠江国敷知郡馬込村に生まれ、幼少より、時の領主徳川家康に仕えて兵站を担っていた馬込平左衛門は、のちに日本橋大伝馬町で伝馬役・名主役を務めましたが、慶長11(1606)年、家康より、この恵比寿神を受けたと伝えられています。馬込平左衛門の娘・雪は、ウィリアム・アダムス(三浦按針)へ嫁ぎ、マリアと名のったということです。商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び、毎年10月19日「べったら市」(元禄時代から開かれ、べったり運がつくと人気)、10月20日の恵比寿神祭が両日にわたって盛大に執り行われています。(案内板より)
「日本橋七福神」めぐりの最初の神社にやってきました。
◎椙森(すぎのもり)神社 (恵比寿神=商売繁盛の神様)◆
社伝によれば平安時代、平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森=新橋、柳森=神田須田町、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。鳥居の脇にある「富塚の碑(富塚碑)」は、江戸時代に行われた富興行をしのんで大正8 (1919) 年に建てられた(昭和28年再建)日本で唯一の富塚で、富札も残されています。(案内板より) ところで、富塚碑の隣にある洗う手水舎(ちょうずや)に、少し離れた場所から、そっと近づいてみてください。何かが起こりますよ。
◆堀留児童公園◆
中央区立日本橋保健センターの大きな建物の中を通り抜けるとあります。十思公園では見学に気をとられて休めなかったと思うので、ここで小休止を。
◆出世稲荷神社・岩代稲荷神社◆
堀留児童公園の中ほどにある出口から道路を右折すると、すぐに赤い幟がヒラヒラとしているのが目につきます。そこの細い路地を入っていくと、中ほどに、出世稲荷神社と白抜きされた赤い幟が数本立っているビルがあります。そのビルの細い通路を進んだ奥にあります。出世稲荷神社は、このあたりが拓けてきた頃に住み着いた北条家浪人・庄司甚右衛ほか数名の仮屋敷内に元和3(1617)年創建したと伝えられ、江戸時代、初代・市川団十郎が日参し名をあげたことから出世稲荷神社と称されるようになったということです。現在の本殿は、関東大震災後に椙森神社の旧拝殿の廃材を再利用して建立したそうで、岩代稲荷神社も合祀されています。(案内板より)
◆人形町末廣(寄席)跡◆、◆玄冶店(げんやだな)跡◆
人形町通りを横切り、人形町交差点に向かうと、昭和45(1970)年1月に幕を閉じた形町末廣(寄席)跡、玄冶店跡が並んでいますが、よく探さないと通り過ぎてしまいます。玄冶店は、歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(通称『切られ与三郎』)の4幕目には、実名を避けて鎌倉にある「源氏店」として登場する、お富と切られ与三郎の情話の舞台になりました。春日八郎の「お富さん」の歌詞は「エーサオーげんやだな」と歌っています。(案内板より)「玄冶店」は古くからの地名で、江戸時代、幕府の医者・岡本玄冶が住んだことに由来します。玄冶は幕府の医官で、将軍家光が痘瘡を病んだ時、見事にこれを全快させて、一躍その名を高めた名医でした。
このあたりの日本橋人形町商店街には、老舗の食事処をはじめ、美味しいお店がたくさんあります。グルメ、観光、名店紹介サイト「東京 日本橋 人形町」の「お店紹介」には「食べる・グルメ」コーナーがあって、食事のお店がたくさん紹介されています。 |
◆大観音寺◆
鎌倉時代に作られた御首だけの鉄造観世音(1.7メートル)をご本尊に祀る、江戸三十三観音第三番札所の寺院で、人形供養が有名です。境内には、走りの守護神・韋駄天尊も祀られ、ランナーの聖地ともなっています。東日本大震災で、ご本尊だけが真東に向きを変えられました。「平成の不思議顕現」といわれ、毎月ご縁日の11日と17日にお扉が開かれ、誰でもお参りすることができます。(「大観音寺 | 東京 中央区の観光情報公式サイト Central Tokyo for Tourism」による)
◆よし梅芳町亭◆
かつて「芸者新道」と呼ばれた大観音寺の横の路地は、昔の人形町の雰囲気が残っています。その一角にあるよし梅芳町亭は震災復興期に建てられた木造総2階建の家屋で、いまは江戸料理のお店ですが、国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。
◎小網神社 (福禄寿=福徳長寿の神;弁財天=商売繁盛・学芸成就の神)◆
昭和4 (1929) 年に造営された社殿は、伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされています。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持っています。境内には、銭洗い弁天も祀られ、毎年11月末には「どぶろく祭」が行われます。(➡「小網神社ホームページ」)
◆西郷隆盛屋敷跡◆
中央区立日本橋小学校正門の左わきに案内板がたっています。西郷隆盛は明治維新のあと、郷里の鹿児島にいましたが、明治4 (1871) 年に上京して参議に就任しました。ここでは、書生15人・下男7人が住んだほか、猟犬を数頭かっていたと言われています。明治6年になると朝鮮との国交問題が緊迫し、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らと対立した西郷、板垣退助等は、参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引き払い、鹿児島に帰郷します。そして、明治10年に西南戦争を起こし自害しました。
◆「鯨と海と人形町」のオブジェ◆
この三題噺は、お分かりですか? あやつり人形のバネは、今でも鯨ヒゲが使われています。特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。ここ人形町一帯は寛永10(1633)年頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形「結城座」、手あやつり人形の「薩摩座」などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和8(1933)年、正式に人形町という地名になりました。(案内板より)
◆谷崎潤一郎生誕の地◆
谷崎は明治19(1886)年、この地で生まれ、阪本尋常高等小学校(現在の日本橋兜町にある)に通っていました。谷崎は、大正の中期までは、『刺青』や『少年』など、耽美と背徳の空想的な世界を華麗に描きましたが、大正の後期から日本的な伝統美に傾倒して、王朝文学の息吹を現代に生かした新しい境地を開きました。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などがあります。
◎茶の木神社(布袋尊=福徳円満・防災の神様)◆
親子丼で有名な「玉ひで」の角を右折して進むと、ビルの谷間に茶の木神社があります。この土地は、江戸時代は約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷で、茶の木神社はその守護神として祀られました。社の周囲に巡らされた土堤芝の上に、丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられています。その中屋敷内は勿論のこと、周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころからか、誰言うとなく「火伏の神」と崇められてきました。
◎東京水天宮(弁財天=福徳・諸芸能上達の神様)◆
久留米藩主だった有馬家が、明治5(1872)年、日本橋川に鎧橋(兜町付近)が完成し新道が開通するとともに、藩邸の接収により赤坂から移ってきました。水天宮はこの有馬の藩邸内社で、人々は門外からお賽銭を投げ入れて参拝していました。毎月 5 日の縁日に限り、庶民にも開放されたため「なさけありまの水天宮」と流行語になったほどです。また、鈴乃緒(鈴を鳴らすさらしの鈴紐) のおさがりを腹帯に用いると安産になる、というご利益に誘われ、参拝客が押し寄せました。関東大震災(1923年)では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後、復興されて昭和5(1930)年に流れ造りの社殿が完成し、昭和42年に権現造りの社殿となったあと、平成28年4月に、現在の新社殿が遷座しました。(➡「水天宮ホームページ」)
◎松島神社(大黒天=豊穣の神)◆
酉の市が開かれる松島神社は、財宝無限、大願成就に霊験あらたか、とあります。このあたり一帯は、鎌倉時代の元享(1321年)以前は入り海で、小島があって、ここに諸神を勧請し、夜ごとに掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられています。正徳3(1713)年、新町が開設されるとき、社号にちなんで町名を松島町としました。当時、付近を埋め立てて武家屋敷を造営するため、日本各地から技をもつ人々が集められ、彼らは、住まいを構えた町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために、14柱の御祭神があります。(案内板より)
ところで、松島神社の前の道路の電柱を見ると、「大門通り」と書かれています。これは、かつてこの地にあった「吉原」の大門に通じる街路の名残りです。 江戸の初期、江戸の町中には、武士を対象とした娼家が現れはじめます。風紀の乱れを恐れた幕府は、慶長17 (1612) 年、葺屋 (ふきや) 町東の葭 (よし) の生い茂っていた2町四方 (約1万5千坪) の沼地を埋めたてます。塀で仕切り廓をつくり、町中に点在していた娼家を移しました。こうして生まれたのが幕府公認の遊郭・吉原です。はじめは「葭原 (よしはら)」でしたが、のちに、めでたい文字をあてた「吉原」と表すようになります。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華。武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ繁盛を極めていたようです。廓は、明暦3 (1657) 年の大火(振袖火事)でほとんどが焼失し、幕府の命で浅草寺裏の日本堤付近に移転しました。(➡「人形町の歴史 | 東京日本橋 人形町 – 人形町商店街」) |
◆甘酒横丁◆
大門通りを進むと、にぎやかな横丁を横切ります。ここが甘酒横丁です。明治の初め頃に、この横丁の入口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから、こう呼ばれるようになりました。
◎末廣神社(毘沙門天=福徳を授ける神)◆
江戸時代の初期に吉原がこの地にあった当時、その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の4カ所の氏神として信仰されていました。社号の起源は、延宝3(1675)年、社殿修復のさい、年経た中啓(翁)が発見されたので、氏子の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠したものです。(案内板より)
◎笠間稲荷神社東京別社(寿老神=福徳長寿の守護神)◆
笠間藩主・牧野成貞は、延宝9(1681)年に、現在の久松警察署前の小川橋・蛎浜橋辺(浜町緑道になっているところ)から隅田川に至る2万1,269坪(約7万平メートル)の土地を五代将軍綱吉から下屋敷として拝領しました。邸内には広大な屋敷と庭園、泉池を設け、築山には稲荷・山王・八幡を祀っていました。安政6(1859)年、時の笠間藩主・牧野貞直は、日本3大稲荷のひとつ常陸笠間神社の御分霊を江戸下屋敷に祀り、五穀をはじめ水産、殖産の守護神として信仰を集めました。廃藩後、牧野公邸は本所緑町に移転し、明治21年には牧野家の願いにより、笠間の本社が奉祀する所となりました。(➡「笠間稲荷神社ホームページ」)
◆勧進帳の弁慶像◆
浜町緑道(浜町川跡)を歩き、再び甘酒横丁とぶつかるところで、見栄を切っています。
江戸開府後の寛永元 (1624) 年ころ、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、猿若座(のちの中村座) を人形町に開いたのが江戸歌舞伎の始まりです。次いで、泉州堺の村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建てました。江戸時代、この界隈(人形町交差点、水天宮前交差点、久松警察署前交差点に囲まれた一帯)には人形を作る人、修理する人、商う人や、人形を操る人形師らが大勢暮らしていました。周辺には人形浄瑠璃をはじめ、説経芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻 (手品) と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで多くの人々が、当時の代表的な娯楽だった芝居見物を楽しんでいました。また、季節ごとに市がたち、正月には手鞠・羽子板、3月には雛人形、5月には菖蒲人形などを商い、年間をとおして賑わいの絶えない街でした。(➡「人形町の歴史 | 東京日本橋 人形町 – 人形町商店街」) |
◆浜町公園◆
関東大震災(1923年)によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により隅田公園 (台東区、墨田区)、錦糸公園 (墨田区)と並んで計画されました。江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅がありましたが、公園として整備され、1929年に開園しました。現在は、運動場や総合スポーツセンター、デイキャンプ場などがあります。
◆隅田川テラス◆
浜町公園から隅田川テラスに降り、隅田川沿いに歩きます。◆隅田川◆は、古くは、墨田川、角田川 (すみだがわ)、大川、浅草川、宮戸川 (みやとがわ)、両国川とも呼ばれていました。明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称されました。
◆新大橋◆
元禄6(1693)年、現在地よりやや下流に、はじめて木の橋として架けられました。両国橋が万治2(1659)年に架けられ、当時「大橋」と呼ばれていたので、 その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称したのです。明治45(1912)年、現在位置に誕生した鉄橋の新大橋は、関東大震災(1923年)および太平洋戦争の大空襲(1945年)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。昭和52(1977)年、現在の橋に架けかえられています。(新大橋西詰の避難記念碑より)
左斜め後方に東京スカイツリー、対岸に江東区芭蕉記念館、芭蕉庵史跡展望庭園を眺めながら歩来ます。
◆清洲橋◆
関東大震災復興事業によって建造され、昭和3(1928)年に竣功した清洲橋は、橋長186.2メートル、幅員25.9メートルで、放物線状の優美な外観の吊鎖など、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁です。(➡「文化遺産オンライン」> 清洲橋)
◆成田山東京別院深川不動堂◆
赤札堂の角を左に曲がり、深川公園公園を突っ切ると、境内に入ります。江戸時代の初め、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王の登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。これを受けて、元禄16(1703)年、1回目の成田不動の「出開帳」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動堂の始まりです。開創310年を期に平成23(2011)年、新本堂が完成し、翌年、落慶法要が営まれました。(➡「成田山 東京別院 深川不動堂ホームページ」)
◆富岡八幡宮◆
寛永4(1627)年創設され、「深川の八幡様」として江戸庶民に親しまれ、現在まで続く「江戸最大の八幡様」です。江戸勧進相撲の発祥地であり、境内には「横綱力士の碑」「大関力士の碑」など、相撲に関連する記念碑があります。新しい横綱が誕生すると、記念の土俵入りが奉納されます。また、江戸後期の測量家「伊能忠敬」が近くに居住していたことから、鳥居の脇に、銅像が建てられています。(➡「富岡八幡宮へようこそ」) 富岡八幡宮を出て、永代通りを右にすすむと、◆東京メトロ東西線・門前仲町駅◆への入口があります。