縄文のウルシと元弘の乱をたどるハイキング:東村山市 (515)-10km

[区間]  最後は、東村山駅東口広場の「志村けんの木」を見る

志村けんの木
志村けんの木

東村山ふるさと歴史館―諏訪神社―(清正公―東村山猿田彦神社―鎌倉古街道標識)―志村けんの木―西武新宿線・東村山駅東口

 東村山ふるさと歴史館に来るとき素通りした諏訪神社に寄り、東村山駅東口広場の線路際に3本立っている「志村けんの木」で、きょうのコースは終わりです。
 途中、コースからやや離れた清正公、東村山猿田彦神社、鎌倉古街道標識には、ご関心のある方だけお立ち寄りください。

  • 諏訪神社
  • 諏訪神社
  • 「諏訪神社本殿」説明文
  • 清正公
  • 清正公
  • 猿田彦神社
  • 猿田彦神社
  • 猿田彦神社
  • 志村けんの木

諏訪神社

諏訪神社
諏訪神社

 諏訪神社の創建年代は不詳ですが、貞享2年(1685)に創建したといわれています。
 前川(東村山駅西口をスタートして弁天池公園に向かうときに弁天橋で渡った川)の洪水で流れ着いた御神体を、桜井利兵衛がお祀りして、貞享2年、境内地と共に、現諏訪町の鎮守様として徳蔵寺に寄贈した、と伝えられています。
 以来、明治元年、神仏判然令が施行されるまで、永く徳蔵寺の管理下にありました。
 昔は素晴らしい杉林であって、現在の徳蔵寺本堂は諏訪神社の杉材にて建立されたと伝えられています。

清正公

清正公

 東村山駅の西口から近い住宅街のなか、普通の住居のようですが、そのお宅の横に「東村山、清正公」と彫られた白い羽子板状の標識が地面に刺さっています。
 どういうことか調べてみたら、故 前田耕造医師が、個人で加藤清正公を祀られたそうです。

 「祀ったのは前田耕造医師で前田家は万治2年(1659)熊本藩の支藩である細川家宇土藩3万石に仕える代々医者の家系で明治に入って東村山に移り住みました。前田耕造医師は大正15年に亡くなり梅岩寺に葬られています(東村山観光ボランティアガイドの会さんの報告より)。」(「東村山市に加藤清正公を個人で祀ったお社があります。」、Blog『旦さまと私』より)

 戦国武将で後に熊本藩の初代藩主となった加藤清正 (きよまさ) の没後、彼を祀って所願成就を願う「清正公 (せいしょうこう) 信仰」が興ります。
 明治になると清正公信仰は仏教系と神道系に分離し、熊本には清正を祭神とする加藤神社が創建されました。その直後、西南戦争が勃発して熊本は戦場となり、加藤神社は大きな被害を受けましたが、熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍を食い止めて最後まで落城しませんでした。これは加藤清正の加護であると信じられ、各地に清正を祀る神社が建てられました。

東村山猿田彦神社

猿田彦神社
猿田彦神社

 清正公のすぐ前、住宅街の一角に猿田彦神社はたたずんでいました。
 猿田彦神社は杉並区の阿佐ヶ谷駅周辺・鎌倉街道沿いに3社あって気になっていたこともあり、東村山猿田彦神社を訪問しました。
 猿田彦神社をめぐっては、「猿」と「申」とが通じていることから庚申信仰と結びついていることも、興味がありました。
 もうひとつの興味は、全国の猿田彦神社の頂点に立つ神社が、2社あることです。
・伊勢市にあって猿田彦大神の子孫である宇治土公家が代々宮司を務める「猿田彦神社」 
・鈴鹿市にあって「猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮として、「地祇猿田彦大本宮」と尊称」されている「椿大神社

 それはさておき、東村山猿田彦神社は、どのような経緯でここに置かれたのでしょう? 意外な歴史でした。

「この神社は、明治28年8月に東村山停車場が開業して以来、だんだん増えてきた地域の人々の、親しい結び付きをはかるために、昔から旧道の辻にあった庚申さまを地区の鎮守と定め、お祀りしたものです。
 辻の庚申さまは、宝暦3(1759)年、村人たちによって建てられたもので、道を守って下さる神として信仰されてきました。停車場ができて地区の守り神を望むとき、「道の神・猿田彦さま」を鎮守と仰ぎ、辻から移してお祀りしたのです。鉄道も「みち」であり、駅に関わりのある周辺地域の守り神としてふさわしく、人々に広く信仰されています。」(境内の掲示より)

志村けんの木と志村けんの像

志村けんの像(地元に住むOさん撮影)

 東村山駅東口広場の線路側歩道部分に、大きな木が3本立っています。昭和51年、タレント志村けんさんが東村山市の地名を全国に広めてくれたことに市が感謝状を贈ったさい、記念に植樹した木が大きく生長しました。
 志村けんさんは令和2年3月29日、新型コロナウイルスに感染して亡くなりました。
 東村山市では「令和2年6月25日(木曜)に市議会の同意を得て、志村けんさんが名誉市民に選定され、同日その後の顕彰式にて、東村山市名誉市民の称号をご遺族にお贈りいたしました。なお、東村山市の名誉市民は志村けんさんで3人目となります。
 同氏は「東村山音頭」により、一躍東村山の存在を全国の方に知らしめた恩人であり、万人に愛され続けた喜劇王である同氏のこれまでの比類ない功績をたたえ、東村山市民が郷土の誇りとして、深く尊敬に値すると認められることから、市民敬愛の対象として顕彰いたしました。」(東村山市トップページ > 市政情報 > 広報・広聴 > ピックアップ > 令和2年度のピックアップ > 志村けんさんに名誉市民の称号をお贈りしました より)

 そして令和3年6月26日、志村けんの木と並んで、志村けんの像が立ちました。
 地元有志の「志村けんさん銅像プロジェクト実行委員会」が、2020年10月にクラウドファンディングで6,630人の方から目標をうわまわる27,442,905円の寄付を集め、実現させたものです。

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