縄文のウルシと元弘の乱をたどるハイキング:東村山市 (515)-10km

[区間]  新田義貞・久米川の戦いの舞台をあるく

八国山緑地将軍塚

八国山緑地おおぞら広場将軍塚久米川古戦場跡記念碑徳蔵寺板碑保存館

 おおぞら広場から250mぐらい歩くと将軍塚に着きます。こんもりしたところですが、木が生い茂っていて眺望はありません。
 将軍塚から100mぐらいで、八国山緑地はおしまい。所沢方面の高層マンション群が遠くに見えます。
 久米川古戦場跡記念碑は、住宅街の北の端に記念碑が立っているだけです。往時、ここで合戦が繰り広げられたとは、とても想像できません。
 北川の橋を渡り、SEISHIN幼稚園の横を通り過ぎると、徳蔵寺が目の前です。

将軍塚

八国山緑地将軍塚

 八国山緑地の尾根道から南に10mぐらい入ると、周囲より2mぐらい盛り上がった茂みがあって、「将軍塚」と書かれた石碑が立っていました。
 将軍塚を説明する現地案内板によると、
「鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道古道が南北に通っていた。
 元弘3 (1333) 年、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)は同道を南下し、小手指ヶ原(こてさしがはら)で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(ぶばいがわら;東京都府中市)の合戦ででようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えらえる。江戸時代に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同署には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。」
とあります。
 将軍塚の手前には、「元弘青石塔婆所在趾」と大書された大きな石碑が立っています。「元弘の板碑」と呼ばれるこの板碑は国重要文化財に指定され、これから訪れる徳蔵寺板碑保存館に保存展示されています。

小倉靖さん作成(中学1年のときの「鎌倉街道の研究」より)

久米川古戦場跡記念碑

久米川古戦場跡記念碑の説明文

 八国山緑地を東端の出口に下りて、緑地の南面を西に回り込むとすぐ、「久米川古戦場跡記念碑」が立っています。上記の説明にあるように、周辺は宅地化が進み、古戦場だった面影は感じられません。

元弘の乱(げんこうのらん)

 鎌倉時代の最末期、元徳3年4月29日(西暦1331年6月5日)から元弘3年6月5日(西暦1333年7月17日)にかけて全国的内乱が起きました。この乱は「元弘の乱」と呼ばれ、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で戦われました。
 鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、元弘3年6月5日(西暦1333年7月17日)に京都へ凱旋し建武の新政を開始しました。

新田義貞の戦い

 元弘3年5月8日、上野国生品明神(現在の群馬県太田市新田市野井町)で挙兵した新田義貞の軍勢は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進し、鎌倉幕府の軍勢を小手指原の戦い久米川の戦い分倍河原の戦いで破り、敗退した幕府勢は鎌倉へと追い詰められました。
 しかし鎌倉の切通しの守りは固く、切通しからの攻略を諦めた新田軍でしたが、新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉への突入に成功。市街戦で執権北条守時(第16代執権)や北条基時(第13代執権)ら幕府要人が戦死・自害します。
 生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や北条貞顕(第15代執権)ら幕府の中枢の諸人総計800余人は元弘3年5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害し、これが元弘の乱の最後の戦い(東勝寺合戦)となったのです。

 なお、当サイトでは、分倍河原の戦いの跡を組み込んだコースを紹介しています。
 ・歴史をたずね、折々の花を楽しむ:分倍河原駅~府中本町駅(101)―10.5km

 また、ワンデーウォークの会の例会では鎌倉切通し、東勝寺跡を訪ねる
 ・103-新田義貞鎌倉攻めの道(小田急・片瀬江ノ島駅―小動(こゆるぎ)神社-満福寺・本堂展示室見学-(七里ヶ浜)-行合橋-稲村ケ崎(鎌倉海浜公園・昼食)-十一人塚-日蓮大菩薩 御袈裟懸松-極楽寺坂切通-極楽寺-(由比ヶ浜)-東勝寺跡(北条一族終焉の地)-鶴岡八幡・三の鳥居、2014.6.1実施)

を実施しており、いずれ本サイトでも紹介いたします。

久米川の戦い

 元弘3年(1333年)5月11日朝、入間川を渡って小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達した新田義貞の軍勢は、桜田貞国を総大将、長崎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と衝突します。激戦の末、周辺御家人の援護を得た新田軍は幕府軍に優勢のまま日没を迎えます (小手指原の戦い)。幕府軍は態勢を整えるため、久米川まで撤退します。義貞は、そのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとって麓の幕府軍と対峙しました。国土地理院地図を眺めると、将軍塚は八国山の尾根が終わる東端点です。塚の手前80mぐらいのところに、尾根を南北に横切る小道があり、もしかすると両軍の軍勢は、この細道を通って退却あるいは進撃をしたのかもしれないと、空想しました。
 翌5月12日朝、義貞は、久米川に陣を張る幕府軍に奇襲を仕掛けるものの失敗します。鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採った幕府軍は、義貞にこの戦法の裏をかかれ、逆に本陣を狙われて撃破され、総大将の桜田貞国は分倍河原まで退却することとなります (久米川の戦い)。
 ちなみに小手指原の戦いの場所から将軍塚まで直線距離で4km強、将軍塚から分倍河原の戦いの碑まで直線距離で12km強です。

徳蔵寺と板碑保存館

徳蔵寺山門、右の建物は板碑保存館

 久米川古戦場跡記念碑から徳蔵寺周辺にかけての一帯が、かつての久米川古戦場だったようです。
 徳蔵寺は、臨済宗大徳寺派に属する禅宗の寺院です。創立は永禄3 (1560) 年と伝えられています。
 新田義貞・久米川の戦い(1333年)当時の鎌倉街道は人々の往来が多く、久米川宿や西宿(諏訪町)とその周辺には多くの人々が住み、また街道に沿って 村落も点在したと考えられ、徳蔵寺前の道も、八国山に通じる鎌倉街道の脇道として利用されていたと考えられるので、この地に徳蔵寺の前身となるお堂が存在していても不思議なことではないでしょう。
 江戸時代中期、八国山将軍塚の南、丘の中腹にあった「永春庵」は徳蔵寺境内に移され、その後「元弘の碑」も境内に移されました。
 

 1968年、徳蔵寺に保管されていた板碑・石器・土器等を保存するため、2階建ての「板碑保存館」が完成し、2003年に装いを新たに開館しましました。
 1階には、石器・土器、国分寺瓦、古銭等
 2階には、「元弘の碑」を中心に、板碑約170基、宝篋印塔、五輪塔、道標等
が展示され、とくに板碑のコレクションには圧倒されました。(保存館の展示の一部を、下のスライドショーで紹介します)
 拝観時間は9:00~17:00 (月曜日休館)、拝観料はおとな(高校生以上)200円、こども100円です。
 徳蔵寺および板碑保存館の説明は、徳蔵寺公式サイト が詳しいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください