サクラ・紅葉、森林浴を楽しむ府中の公園めぐり (089-2)

32-浅間神社37-府中の森公園(緑町公園出口)

人見稲荷神社⇒キスゲ橋⇒浅間神社⇒浅間山公園⇒浅間山公園富士見百景⇒平和の森公園入口⇒府中の森公園入口⇒滝噴水池⇒日本庭園⇒梅林⇒武蔵野の森⇒府中の森公園(緑町公園出口)

人見稲荷神社から北へ向かってぶつかる浅間山通りは、両側に木が生い茂っている切通しになっている。右側は、多磨霊園とそれに隣接している浅間山公園だ。上り坂の道路の先には、道の両側を結ぶ橋が架かっている。
浅間山通りの右手に、「多磨霊園」と記された案内があり、その脇から林のなかに入っていく。

「多磨霊園」という青い掲示板のところの切れ込みから、林のなかに入る。

切れ込みから林にはいったところですぐ、浅間山通りと並行に左へ上っていく小道と、前方に上る小道とに分かれるが、どちらを進んでもいい。
私たちは、踏み跡がしっかりついている前方に向かう道をたどった。分岐が出てくるが、上る道を選んで進むと、平らな場所に出た。尾根に出たようで、上ってきた道と交差している尾根の道を左に向かう。林のなか、静かでいい雰囲気だ。下り坂になると前方に橋が見えてくる。
ここは、すでに浅間山公園の一部だ。

キスゲ橋

キスゲ 橋

キスゲ橋を渡ると、正面に浅間神社へ上る階段がある。

この階段を直登すると、浅間神社に着く

浅間神社浅間山公園富士見百景

浅間神社

浅間山公園は、多摩の台地が古多摩川や他の河川で削られて残った小高い丘にあり、標高80mの堂山 (周囲との標高差30m)、中山、前山の3つの頂をもっている。
浅間神社は、堂山の山頂に築かれた塚の上に祀られていて、御祭神は木花之佐久夜毘売 (このはなのさくやびめ)。
塚の周囲をまわることができる。この塚は、どう見ても古墳に見えます。さらに、堂山と中山をあわせて巨大な前方後円墳のようにも見えてしまう。古墳だとすると、このような見晴らしの良い丘の上に眠っている人物は、見渡せる範囲に影響力をもっていた人かななどと、空想がふくらんでくる。

浅間山公園については、指定管理者 西武・武蔵野パートナーズ「むさしのの都立公園TOP > 8公園の紹介 > 浅間山公園」に詳しい説明、地図があるので、ご覧ください。
トイレは、堂山と中山のあいだの鞍部にトイレがある。

富士見百景からは、富士山が真正面に見える。
ここから出口に向かって下っていく斜面には、5月中旬、浅間山公園だけに自生するユリ科のムサシノキスゲが見ごろを迎えるそうだ。

富士見百景から見た富士山

平和の森公園

浅間山公園をあとに、西に向かうと、目の前に金網のフェンスがたちはだかっている。ここは米軍府中通信施設だったが、令和3年9月30日に施設の土地及び建物等の全部について、米軍から日本に返還されたばかりだ。

府中市には、1939年、旧帝国陸軍燃料廠として府中基地が設置された。
敗戦後、陸軍燃料廠は米軍に接収され、米軍はここに極東第5空軍司令部と在日米軍司令部を設置しました。航空自衛隊が発足すると、米軍は基地の一部を日本に返還、日本はここに航空自衛隊航空総隊司令部を設置した。
1965年には代々木の米軍住宅を東京オリンピックの選手村などに使用するため、府中基地や関東村に米軍住宅が移転してきたが、基地機能の強化と米軍住宅の拡大により、基地周辺では電波障害やヘリコプターの騒音、米国人の起こす犯罪などが発生し、府中市は1972年に数回、基地返還の陳情等を行った。
1973年、関東地域の米軍施設を集約する「関東計画」が発表され、米軍府中基地は通信施設を除き全面返還さた。
米軍基地跡に、平和の森公園が誕生。

府中の森公園

府中の森公園は1991年6月1日、基地跡地利用方針に基づいて、公園用地として整備された。災害時の避難場所としての機能も持っている。
運動施設や芝生広場、噴水、日本庭園、森がある広々とした公園だ。

木陰がたくさんあって、夏でも気持ちよく過ごせる。日本庭園にはモミジが植えられ、紅葉の季節はきれいな色どりを見せてくれそう。その奥には梅林があり、2月下旬ごろも楽しみだ。
府中の森公園については、公益財団法人 東京都公園協会「府中の森公園」をご覧ください。園内マップもあります。
公園北側に府中市美術館、南側に府中の森芸術劇場が隣接している。

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