小石川七福神コース(088-1) -6km

    江戸時代、傳通院(でんつういん)の寺領地だった「小石川村」。平成7年から七福神がはじまりました。

    江戸時代、武蔵国豊島郡小石川村の多くは傳通院の寺領で、傳通院の前を流れる川に小石や砂が多かったことから「小石川」という名前がついたといわれています。傳通院(でんつういん)は、徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)の法名を冠した寺院で、 広大な徳川家の墓域があり、ここに千姫を始め、徳川家ゆかりの人たちの古い廟所が建っています。

    七福神は、福をもたらすとして信仰されている恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天の7柱の神様で、もともとはヒンズー教、仏教、道教、神道などの神様たちでした。

    小石川七福神コース」は、8か所の七福神をまわります。弁財天が2か所あり、1柱は弁財天の使いとして福をもたらす、とぐろを巻いた白蛇像、1柱は人頭蛇身でとぐろを巻いた宇賀弁財天です。七福神めぐりではありますが、サクラの季節、フジの季節、紅葉の季節も楽しめる、約6キロメートルの都心あるきです。

    [コース紹介] JR中央・総武線各駅停車・水道橋駅西口-福禄寿(東京ドームシティ)毘沙門天(常光山 源覚寺:こんにゃくえんま)-善光寺-慈眼院 澤蔵司稲荷-傳通院(指塚、於大の方・千姫墓所)大黒天(福聚院:せきどめ地蔵)布袋尊(真珠院)寿老人(宗慶寺)弁財天-播磨坂さくら並木-弁財天(徳雲寺)-傳明寺(藤寺)恵比寿尊(深光寺)-林泉寺(しばられ地蔵)-教育の森公園(占春園/文京スポーツセンター)-東京メトロ丸の内線・茗荷谷駅

    本コースは、JR中央・総武線各駅停車・水道橋駅からJR山手線・池袋駅まで約11キロメートルを歩く「小石川七福神+雑司が谷七福神 (088)」コースの前半部分です。前半部分だけでもじゅうぶん楽しめます。

    コース全体をご覧になる方は ⇒ 「小石川七福神+雑司ヶ谷七福神 (088)
    コース後半部分をご覧になる方は ⇒「小石川七福神 (088-2)
    写真は ⇒「088-小石川七福神+雑司ヶ谷七福神

    コース地図をご覧ください。

    コース距離です。

    ポイント区間距離累計距離
    水道橋駅西口改札口
    福禄寿(東京ドームシティ)449m449m
    毘沙門天(常光山 源覚寺:こんにゃくえんま)974m1,423m
    善光寺391m1,814m
    慈眼院 澤蔵司稲荷138m1,952m
    傳通院(於大の方、千姫墓所)439m2,391m
    大黒天(福聚院)251m2,642m
    布袋尊(真珠院)359m3,001m
    寿老人(宗慶寺)700m3,701m
    弁財天159m3,860m
    弁財天(徳雲寺)528m4,388m
    傳明寺(藤寺)241m4,629m
    恵比寿尊(深光寺)220m4,849m
    林泉寺(しばられ地蔵)165m5,014m
    文京スポーツセンター1,050m6,064m

    コースポイントの説明

    小石川七福神の各七福神については、文京区ナビ TOP → 文京区を散歩→ 小石川 七福神めぐり をご覧ください。

    東京ドーム

    22番ゲート前の総合案内所裏手の一段高くなったところに、福禄寿が祀られています。

    源覚寺

    「こんにゃく閻魔 (えんま)」として知られているお寺です。むかし、目をわずらっていて眼病治癒の願をかけたある老婆の夢枕に、源覚寺の閻魔さまが「自分の右目を犠牲にして、おまえの眼病を治した」と立ち、目が治った老婆は、好物のこんにゃくを断って供えたそうです。毘沙門堂に木造の立派な毘沙門天が祀られています。また、向かって右側の奥に祀られていて、全身、塩でおおわれて真っ白な「塩地蔵」は、源覚寺が建てられる前からこの地の人々が、身体健康を祈願していたそうです。

    善光寺

    慶長7(1602)年の創建で、傳通院を護持している僧侶が住む塔頭(たっちゅう)でしたが、明治17(1884)年に善光寺と改称し、信州善光寺の分院となりました。

    澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)

    慈眼院「沢蔵司稲荷」たくぞうすいなり公式HP – 沿革 – 澤蔵司稲荷 による説明は、以下のとおりです。江戸時代にタイムスリップしたような気がします。

    元和6年 (1620年)、傳通院の廓山上人によって、傳通院山内慈眼院を別当寺(神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺)として、その境内に祀られた。
     縁起によると、元和4戌午年 (1618年) 4月、傳通院の坊舎(修学僧の宿舎)の学寮主・極山和尚の門を、澤蔵司と名のる僧が浄土教の修学をしたいと訪ね、入門した。たいへん優秀で、わずか3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6庚申年5月7日の夜、学寮主・極山和尚の夢枕に立ち、
     「そもそも余は、太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが、浄土の法味を受け、多年の大望ここに達せり。
     今より元の神に帰りて、長く当山を守護して法澤の荷恩に報い、長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して、稲荷大明神を祀るべし。」
    と言い残して暁の雲に隠れた、と記されている。
     本堂右手の石段下には、朱塗りの鳥居に囲まれ、霊場に相応しい霊窟「お穴」がある。明治時代に石組み等の若干の整備はされているが、江戸名所図会「無量山境内大絵図」でも描かれているとおり、「鎮守の杜」に相応しい面影をとどめ、樹齢数百年の樹木に囲まれた都心とは思えない雰囲気だ。これらの木々が、昭和20年5月25日の空襲で傳通院方面から類焼してきた火災を止め、澤蔵司稲荷境内の建物の一部は被災を免れ、隣接する善光寺や住宅には燃え移らなかった。
     すぐ前の善光寺坂にある(むく)の老樹には澤蔵司が宿っているといわれ、道路拡幅のとき、道をふたまたにして、よけて通した。

    澤蔵司稲荷
    お穴

    小石川無量山傳通院(でんつういん)

    開山 – 傳通院 による沿革は、下記のようです。現在でも広大な境内と墓域がある傳通院ですが、江戸時代はこのあたり一帯を寺領とし、高台にあるので広くあたりを見わたしていたのでしょう。

    応永22 (1415) 年、浄土宗第七祖・了誉が開山。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創された。
     それから200年後の慶長7年(1602年)8月29日、徳川家康の生母於大の方が75歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになった。正保4年(1647年)には、家光の次男・亀松君が葬られ、以来、徳川幕府の外護を受け、諸堂伽藍を整えてきた。傳通院墓地の北側にある広大な一画に徳川家の墓域があり、ここに千姫を始め、徳川家由縁の方々の古い諸廟所が多く建っている。
     教学教化面では、慶長18年(1613年)、増上寺の学問僧300人を傳通院に移して関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席とし、浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内には多くの坊舎(修学僧の宿舎)があって、次第に、学寮に席をおくもの千人を下らぬという状況になった。

    於大(おだい)の方

    1528年、三河刈屋城主・水野忠政の娘として生まれた於大の方は、政略結婚により岡崎城主・松平広忠と結婚し、生まれた男子が竹千代、後の徳川家康となりました。詳しくは、於大の方 – 傳通院 をご覧ください。

    千姫

    慶長2 (1597) 年、徳川秀忠の長女として生まれた千姫は、7歳で豊臣秀頼と結婚して大坂城に入ります。18歳のとき、大坂夏の陣で大坂城は落城しますが、祖父・徳川家康の命によって救出ました。波乱の人生を送った千姫は寛文6(1666)年、69歳で逝去し、その生涯は映画やテレビドラマに取り上げられてきました。

    傳通院に関しては、傳通院・伝通院 をご覧ください。

    福聚院

    お寺の本堂にある、鎌倉時代の作といわれる御本尊の大黒天(正月のみ開帳)は、文京区の有形文化財に指定されています。

    この本堂の真向かいにも、大黒天が祀られており、隣には、たくさんの赤唐辛子の首輪をかけた「せきどめ地蔵」が並んでいます。昔、唐辛子が大好きなお婆さんがいて、喉をわずらって、お医者さんからやめるようにと言われても、唐辛子を食べつづけて、亡くなってしまったそうです。お婆さんの死を悼んだ人たちがお地蔵さんを建てて、唐辛子をお供えしたところ、咳や喉の病気に苦しむ人々が祈願すると治り、信仰されるようになったとのことです。
    ところで、大黒天は、台所,食物を司る神様。「大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、古式武装神スタイルを整えた福聚院の大黒天像は、本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる」 (文京区教育委員会 案内板より)

    真珠院

    真珠院には、於大の方の生家である水野家の墓所があります。初代松本藩主の水野忠清(於大の甥)を開基として、貞享元年 (1684) 年に創建されました。本堂右手の階段を上ったところのお堂に、小さな木彫の布袋様(正月のみ開帳)が祀られています。さらに本堂下の通路を抜けると裏手が墓地になっていて、大きな布袋様の石像が建っています。布袋様は、清廉度量の神様です。

    宗慶寺

    応永22(1415)年、浄土宗・了誉聖冏(りょうよしょうげい)が小石川の清泉のほとりのこの地に、庵を開いたと伝えられます。法然上人が比叡山を下りて、西山広谷を経て草庵を結んだ地に、法水窟より湧き出した滝があって、その水が清らかであったので、流域一帯は「吉水」と呼ばれましたが、これにちなんで小石川の清泉を「吉水」と呼び、のちに極楽水という地名で呼ばれました。庵はのちに「吉水山傳法院」というお寺となり、その後、慶長7(1602)年に於大の方が亡くなったとき菩提寺とするよう命を受けたものの、境内が狭かったので新しく寺を開創して、於大の方の法名を冠した「傳通院」となりました。
    元和2(1616)年に家康が逝去すると、側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)は剃髪し、宗慶尼と称し、傳法院に隠棲しました。傳法院が宗慶寺となったのは、茶阿局の法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」によります。宗慶寺のなかに入ると、延命長寿の神様・寿老人(正月のみ開帳)が祀られています。七福神のスタンプは、極楽水の分もこちらに一緒にあります。

    極楽水

    宗慶寺からすぐ近くの「七福神」という赤いのぼりがたっているマンションの庭への入り口を入ると、すぐに「極楽水 (この下)」という看板があります。この祠が、弁財天 (正月のみ開帳) です。こちらの弁財天は白蛇です。

    播磨坂

    第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備され、この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名づけられました。桜並木になっていて、サクラの名所です。

    徳雲寺

    広い春日通りから入って左側の六角堂に、財力,商売繁盛の神様・弁財天(正月のみ開帳)が祀られています。こちらの弁天様はとぐろを巻いた蛇で、顔は男顔の宇賀弁財天です。

    藤寺

    春日通りから茗荷谷に向かって南に下る急坂は、藤坂(昔はこの坂から富士山が望まれたので富士坂とも)と呼ばれています。坂を下ったところに、いまでも庭一面に藤棚がある傳名寺があります。寺伝によれば、三代将軍・徳川家光が鷹狩の帰り道にこの寺に寄ったところ、一面に藤があるのを見て、「これこそ藤寺なり」との上意があったそうです。

    深光寺

    拓殖大学の正門の真向かいにある急坂を上った本堂の前に、漁業と商売繁盛の神様・恵比寿様が祀られています。本堂の左手には、南総里見八犬伝などでおなじみの滝沢馬琴のお墓もあります。

    しばられ地蔵

    茗荷坂の途中にある林泉寺には、麻縄で何重にも縛られた「しばられ地蔵」が祀られています。願掛けのために地蔵を縛り、願いが叶ったらほどくとされ、江戸時代から庶民の信仰を集めていたそうです。現在寺は改装中で、しばられ地蔵の場所が移動されています。場所が分からないときは、林泉寺の受付でうかがってください。

    教育の森公園

    教育の森公園は、旧東京教育大学(現在の筑波大学)の跡地に、昭和61 (1986) 年に開園しました。公園の中央には自由広場、文京スポーツセンターなどがあります。公園には、カツラ、ユリノキ、ケヤキなど、落葉樹の大きな木があって、11月頃、葉は、薄い黄緑色黄色など、美しく染まります。

    隣接して、斜面地を利用した自然豊かな占春園があり、一般にも公開されています。斜面と低地を利用した占春園内は様々な樹木がうっそうと生い茂り、ササに覆われた樹木の下には細い階段状の園路が池に向かって下っています。中島のある池の回りには大木が生い茂り、静かな雰囲気を漂わせており、東側の低地にある広場にはみごとな枝ぶりのカツラが3本植わっています。また、教育の森公園側の入り口近くには、日本ではめずらしいシロマツやダイオウショウがあります。

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