都心の庭園・植物園を訪ねる:王子駅~後楽園(春日/水道橋)駅 (025)

桜の名所=飛鳥山公園、日本を代表する名園=旧古河庭園/六義園、1年を通して花が咲く小石川植物園、もりだくさんの東京散歩。

名園をゆったり楽しみながら、旧岩槻街道(本郷通り)に沿って点在する、江戸時代に庶民の信仰を集めた寺社・お地蔵さんをめぐる約10.5キロメートルのコースです。
春暖の都心の1日……豪華絢爛に咲きほこるシダレザクラソメイヨシノ
晩春から初夏にかけての都心の1日……新緑の下、咲き乱れるツツジに、さまざまな色合いを見せるアジサイ、色とりどりにゴージャスに咲く春のバラ
晩秋の都心の1日……艶やかなバラの花と、色づき始めるモミジ、大きく包み込む樹々。
さらに、武勇に秀でてモノノケや悪霊さえも退散したと伝えられる八幡太郎義家、「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一、振袖火事、八百屋お七、初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」の発祥地、日本最初の遺体提供者・美幾、など歴史上の人物や事件にゆかりのある場所を訪ねます。
コースには高低差10メートル前後の坂や階段が12か所あります。ふだんは意識することのない、都心にある広い尾根と谷の地形を体感できます。

JR京浜東北線/東京メトロ南北線・王子駅―飛鳥山公園 (紙の博物館・北区飛鳥山博物館・渋沢史料館)―西ケ原一里塚―七社神社―滝野川公園―東京都北区防災センター (地震の科学館)―平塚神社 (平塚城跡)―無量寺―旧古河庭園―六義園―駒込富士神社 (富士神社古墳)―吉祥寺―目赤不動 (南谷寺)―ほうろく地蔵 (大圓寺)―お七の墓 (圓乗寺)―白山神社―小石川植物園―延命豆腐地蔵尊 (喜運寺)―美幾(みき)女 (日本で最初の献体者) の墓 (念速寺)―こんにゃく閻魔 (源覚寺)―礫川公園―展望ラウンジ (文京シビックセンター25階)―東京メトロ丸の内線・後/都営大江戸線後楽園駅 (都営三田線・春日駅)

コースを歩いての感想です:

旧古川庭園は小高い丘に立つ、焦げ茶のレンガ作りの建物。これをバックに赤、黄、ピンク、白の薔薇がフルーティーな芳香を放ちながら、建物の色に映えて、異国情緒あふれる名園。
桜の名所の飛鳥山公園も、重厚でモダンな渋沢資料館のステンドグラスや大きな石のオブジェなど見どころがあり、開放感のある気持ちの良い公園。
そんな場所から始まった今回のwalkingは、冨士神社の富士講や八百屋お七のほうろく地蔵や、平塚神社など盛り沢山の寺社やお地蔵様を訪ねる歩きでしたが、この中で特に印象的だったのは、高島秋帆の墓地がある大圓寺。墓地の中に色とりどりの花や実のなる木が一杯あって、生きる者と死せる者が同じ立ち位置にいるような優しいお寺でした。
それと江戸六阿弥陀の一つ、無量寺の竹や紅葉の中の山門の風情は閑静で、紫式部やみずひき草が品よく配せられていました。侘び、寂を漂わせる佇まいの静寂な境内にしばし身を置いてボーッとしていたいようなお寺。
後半、時間がおして、予定した場所に辿り着いても、閉まって見られなかった喜運寺、念速寺、源覚
寺などがちょっと残念でしたが、庶民の信仰がいろんな形で点在していることを知った1日でした。

 

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コースで見つけた花の写真はコチラをクリック ⇒ 025-都心の庭園・植物園を訪ねる:コースで見つけた花

コース地図をご覧ください。

 

コース距離です。

ポイント 区間距離 累計距離
(01王子駅
(04平和の女神像 548m 548m
(07西ケ原一里塚 560m 1,108m
(08七社神社 125m 1,233m
(09東京都北区防災センター(地震の科学館) 819m 2,052m
(10平塚神社/平塚城跡 347m 2,399m
(11無量寺 505m 2,904m
(12旧古河庭園 487m 3,391m
(13六義園 1,310m 4,701m
(14富士神社古墳 490m 5,191m
(15諏訪山 吉祥寺 640m 5,831m
(16目赤不動尊 378m 6,209m
(19ほうろく地蔵尊/高島秋汎墓 660m 6,869m
(20お七の墓 294m 7,163m
(21白山神社 503m 7,666m
(24小石川植物園 915m 8,581m
(25延命豆腐地蔵尊 322m 8,903m
(26美幾(みき)女(日本で最初の献体者)の墓 270m 9,173m
(27常光山 源覚寺(こんにゃくえんま) 735m 9,908m
(29東京メトロ丸の内線/南北線・後楽園駅 448m 10,356m

 

コース距離には、各庭園内や各寺社内を歩きまわる距離は入れていません。
 旧古河庭園内を一周すると500メートル、六義園内を一周すると1,200メートル、小石川植物園内を一周すると1,600メートル以上あります。

コースの説明 *カッコの数字は、コース地図の番号に対応しています。

―――王子駅から飛鳥山公園方面にすすむと、すぐ、無料で公園へと運んでくれる「あすかパークレール」がありますが、きょうは、それに乗らず、JR京浜東北線と並行に走る路地「飛鳥の小径」を歩きましょう。路地の入口付近には、昔ながらのスナックが並んでいます。しばらくすすむと、アジサイが見えてきます。―――

(04)飛鳥山公園》 徳川吉宗が1720(享保5)年、この地にサクラの苗木を植え、以来、サクラの名所として江戸の庶民に親しまれてきました。いまでは約600本のサクラのほか、「【つつ】約10種・1万5,000株が園内に植えられています。【あじさい】約1,300株が「飛鳥の小径」に沿って約350メートルにわたり、植えられています」(北区ホーム > 文化・観光・スポーツ > 公園一覧 > 飛鳥山公園;なお、このページには、添付ファイル「飛鳥山公園パンフレット(PDF:488KB)、飛鳥山公園モノレールの概要(PDF:9,124KB)、飛鳥山公園さくらマップ(PDF:254KB)」が掲載されています)。王子駅からJRの線路に沿って飛鳥の小径をすすむと、JR線路をまたぐ橋が飛鳥山公園へと架かっています。そこに公園へと登る階段もとりついていて、このあたりはイロハカエデのきれいな紅葉が期待できそうです。飛鳥山公園には、下記の施設(いずれも開館時間は10:00~17:00で、月曜休館)があって、この3館共通の入場券もあります。
北区飛鳥山博物館
紙の博物館
渋沢史料館
旧渋沢庭園は入園無料で、9:00から入園できます。イロハカエデが植えられた園内には、いずれも国指定重要文化財である青淵文庫、晩香廬がひっそりと建っていて、大正期にいるような気分になります。

(07)西ケ原一里塚》 江戸幕府は各街道の行程をあらわすために、日本橋を起点として1里(約4キロメートル)ごとに一里塚を設けました。一里塚には榎などの樹を植え、旅人が木陰でやすめるようにしました。西ヶ原一里塚は日光御成道(岩槻街道)の2番目の塚で、江戸時代からこの場所にあって、国指定史跡になっています。国道の真ん中に、島のようにあるので、歩道から眺めます。

(08)七社神社》 1793 (寛成5) 年の火災で焼失した社は、翌年再建され、「当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、「江戸名所図会」には無量寺の高台 (現・古河庭園内) に「七社 (ななのやしろ)」として描かれています」。明治元 (1868) 年に神仏分離が行われると、翌年「一本杉神明宮の社地に遷座され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました」。境内周辺は「七社神社裏貝塚」で、縄文・弥生の土器が発掘されているそうです。(七社神社ホームページ)

―――七社神社からは、JR線路に並行の細い道をすすみます。道が途切れるかと思ったところは急な階段で、下っていくと京浜東北線や東北・上越新幹線がすぐ横を走っています。上中里駅のホーム脇に差し掛かるところで、滝野川公園へ抜ける細い道が右手にあります。―――

(09)東京都北区防災センター (地震の科学館)》 開館時間は9:00~17:00、月曜休館、無料。展示ホール見学のほか、地震体験 (起震装置)、煙体験初期消火訓練ができます。

(10)平塚神社 (平塚城跡)》 御祭神は八幡太郎源義家平塚神社のホームページに、こんな縁起が載っています:「徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は、平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ、検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり、立身出世を果たしました。その後、家光が病に倒れた際も、山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました」。
平塚神社の周辺からは、平安時代に豊島近義が築城したと伝えられる平塚城の遺構が発掘されています。室町時代中期頃、豊島氏は石神井城を築いて本拠とし、練馬城・平塚城はその支城となりましたが、豊島氏は太田道灌によって滅ぼされました。遺構は本殿の裏にあるようで、その現場は確認できませんでした。

―――平塚神社参道入口の前の信号で国道を渡ると、路地に、「六阿弥陀 三番目 無量寺」と彫られた古い石柱が建っています。その路地を入ってすぐ右折し、すぐ左折し、坂を下りていくと、左手に細い細い路地があります。この路地をはいっていきます。―――

(11)無量寺》 本尊は不動明王像。その隣には平安時代後期の作と伝えられている阿弥陀如来坐像があり、江戸時代から「江戸六阿弥陀」のひとつとして、人々に親しまれてきました。「江戸六阿弥陀」については、ホームページ「中年夫婦のぶらぶらある記」のなかの「江戸六阿弥陀」がわかりやすく説明していて、以下、許可を得て掲載いたします。

聖武天皇の時代 (奈良時代)、今の足立区に、さる長者が住んでいたが子供が一人もおりませんでした。夫婦は熊野権現にお参りし一生懸命お祈りをしたところ、やがて、玉のような女の子が産まれました。この子は「足立姫」と名づけられ、大事に育てられました。
やがて近隣のうわさになるほどの才色兼備の姫となりましたが、今の北区に住まう豊島左衛門清光という悪領主が姫にぞっこんとなり、いろいろ圧力をかけて力づくで嫁にしてしまったのです。
舅にもいじめられ、辛い日々を送っていた姫は、ある日、里帰りの許しが出て帰る途中の沼田川で世をはかなんで身投げをしてしまいました。五人の侍女も後を追って身を投げました。
長者夫婦は悲しみに打ちひしがれ、霊を弔うため熊野本宮に参ったところ仏が夢枕に立ち、「そなたに良い木材を与えよう。近いうちに行基という行脚僧が、そなたの家に立ち寄るので、その僧に六体の阿弥陀仏を刻んでもらうがよい」と告げました。
長者は夢から覚めると早速山中を探したところ、谷間に光り輝く霊木を見つけました。行基菩薩の来訪を、一日千秋の思いで待ちわびていたところ、ほどなくお出でになりました。そこで行基菩薩に一部始終話したところ、行基菩薩も自分の見た夢と一致するとおっしゃり、一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げました。長者は六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したのです。
第一には、西方浄土に生まれ出る御利益を授けるというところから、西福寺(真言宗豊山派・北区豊島2-14-1)と名づけた。
第二には、家内安全・息災延命の御利益を授けるというところから、延命寺(真言宗系単立寺院・足立区江北2-4-3)と名づけた。
第三には、福寿無量に諸願を成就させるというところから、無量寺と名づけた。
第四には、我ら一切の者に安楽を与えるというところから、与楽寺(真言宗豊山派・北区田端1-25-1)と名づけた。
第五には、常に一家和楽の福徳を授けるというところから、常楽院(天台宗・調布市西つつじヶ丘4-9-1)と名づけた。
第六には、未来は常に光明を放つ身を得させるというところから、常光寺(曹洞宗・江東区亀戸4-48-3)と名づけた。
木余りの弥陀:性翁寺(浄土宗)足立区扇2-19-3
木残りの観音:昌林寺(曹洞宗)北区西ヶ原3-12-6

(12)旧古河庭園》 もとは明治の元勲・陸奥宗光の邸宅(現存しない)で、その後、古河家の所有となりました。戦後、国へ所有権が移り、東京都が国から無償で借り受けて一般公開しています。洋館と洋風庭園の設計者は、明治から大正にかけて日本に住み、鹿鳴館やニコライ聖堂など数々の設計を手がけ、また辰野金吾ら創成期の日本人建築家を育成した英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920年)です。和風庭園は、京都の著名な庭師・植治こと小川治兵衛が造りました。庭園には、モミジ、シイ、ヒサカキ、ダイオウショウ、モチノキ、ネズミモチ、ヤブツバキツバキ、イヌビワ、サクラ、ハゼノキ、マツ、ヒマラヤスギ、ツツジバラ、イイギリ、シャガ、ブラシノキ、ハナショウブヒガンバナサザンカが植えられ、ときにバラの開花期(春バラ/5月中旬~6月、秋バラ/10月中旬~11月)に合わせて「バラフェスティバル」が開催されます。詳しくは、東京都公園協会ホームページ「庭園へ行こう。 > 旧古河庭園」をご覧ください。

―――旧古河庭園と六義園の両方を見学すると、時間が足りません。それぞれの庭園がきれいに彩られる時期によって、どちらを見学するか選択してください。―――

(13)六義園》 元禄8 (1695) 年、柳澤吉保が設計・指揮し、平坦な地に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて造り上げた「回遊式築山泉水庭園」で、小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」に由来しています。園内には、マツ、モミジ、ケヤキ、イイギリ、ミズキ、クスノキ、スダジイ、ツツジサツキ、シダレザクラ、サクラムラサキシキブなどが植えられ、とくに3月末ごろに咲くシダレザクラは圧巻です。また11月下旬、岩崎弥太郎の代に作られたつつじ茶屋は、紅葉したモミジに囲まれます。詳しくは、東京都公園協会ホームページ「庭園へ行こう。ホーム > 六義園 」をご覧ください。

―――コース地図では、富士神社古墳の裏から入っていく細い路地を案内しています。分かりにくかったら、表の参道にまわって、お参りしてください。―――

(14)駒込富士神社 (富士神社古墳)》 俗に「富士塚」と呼ばれる前方後円の古墳の上に建てられています。初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、この周辺に鷹匠屋敷があった(現在、駒込病院が建っている)こと、駒込茄子が名産物であったことに由来しています。7月1日が山開きの祭日です。

(15)吉祥寺(きっしょうじ)》 曹洞宗の寺。室町時代の後期、太田道灌が江戸城を築いた際、和田倉門近くの井戸から「吉祥増上」と書かれている金印を発見し、これを城内の庵に祀ったのが始まりといわれています。徳川家康が江戸城に入ると、現在の水道橋駅周辺に移転しました。駒澤大学の沿革によれば、「1592年(文禄元年) 江戸駿河台吉祥寺境内に「学林」設立;駒澤大学の前身である「学林」は、曹洞宗が禅の実践と仏教の研究、そして漢学の振興を目的として設立当時は吉祥寺会下学寮と呼ばれていました」とのことです。
しかし、明暦3 (1657) 年に起きた「明暦の大火」 で全焼し、幕府は火災後、大規模な都市計画事業を行い、吉祥寺は現在の駒込に移転させられました。明暦の大火は、俗に「振袖火事」とも呼ばれ、「江戸三大大火」のなかでも最大の大火で、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、3万人から10万人の死者が出たと言われています。振袖火事については、HP「消防防災博物館」によるこんな解説があります⇒むさしあぶみに見る明暦の大火と俗説「振袖火事」。なお、明暦の大火で焼け出された門前町の住民は、現在の武蔵野市吉祥寺に移住し、この地を開墾したので、「吉祥寺」の地名となりました。
境内の左手奥には新発田藩主溝口家(新潟県)や麻生藩主新庄家(茨城県)など大名家の墓所があります (墓所の奥に見えるおおきな建物は、都立駒込病院です)。
吉祥寺は昭和20年の東京大空襲によって、山門、経堂を除いてことごとく焼けてしまい、ようやく昭和39年になってから本堂、書院、庫裏などが再建されました。昭和41年には、お七・吉三の比翼塚が建てられました。比翼は中国の伝説上の鳥で、雌雄それぞれ、一目一翼のため、つねに並んで一体となって飛ぶといわれています。ここから、相思相愛の男女が心中などで死んだあとを弔うために築く塚を比翼塚といいます。吉祥寺にお七・吉三の比翼塚が建てられた理由は、このあとまわる「八百屋お七墓 (圓乗寺)」の説明をお読みください。

(16)目赤不動 (南谷寺)》 「文京区史跡さんぽ」によると、「三代将軍家光が鷹狩りの途中、動坂のこの庵に立ち寄り、この赤目不動を、目黒・目白不動と同じように”目赤不動”と呼ぶように伝え、寺領を現在地に寄進した。そこで、寺を動坂からここに移転し、駒込目赤不動と称するようになった」とのことです。
ところで目赤不動は、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)にまつわる「江戸五色不動」のひとつといわれ、ほかに目黒不動(瀧泉寺・目黒区下目黒3-20-26)、目白不動(金乗寺・豊島区高田2-12-39)、目青不動(教学院・世田谷区太子堂4-15-1)、目黄不動(永久寺・台東区三ノ輪2-14-5/景勝寺・江戸川区平井1-25-32)があります。

(19)ほうろく地蔵 (大圓寺)》 大圓寺は曹洞宗のお寺。高島秋帆の墓(「高島平」の地名となる;「浮間公園から光が丘公園へ:東京大仏(124)」参照)があります。また、境内にある「ほうろく地蔵」は、旧暦1682年12月28日に起きた「天和の大火」の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けたお七を供養するために建てられたお地蔵様です。井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられて有名になった八百屋お七の物語には異説がおおく、相手の名前にも諸説あるそうです。なお、東京消防庁のホームページに <消防雑学事典> というコーナーがあって、「ぼやで身を焼く八百屋お七」というコラムが載っています。ここで書かれている「江戸時代の放火に関する刑罰」についての記述はユニークです。

(20)お七の墓 (圓乗寺)》 井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」で取り上げられたことで広く知られるようになった「八百屋お七」。新暦1683年1月25日、大圓寺から出火した「天和の大火」で焼け出されたお七は、親とともに圓乗寺(所在地不明の正仙院とも、吉祥寺とも、諸説あり)に避難しました。そこでお七は、寺小姓(山田佐兵衛とも、吉三郎とも、吉三とも、諸説あり)と恋仲になります。その後、家が再建されて一家は寺を引き払いますが、寺小姓と会うことはままならず、互いへの想いはより強くなります。こうして、「もういちど家が焼ければ、また彼がいるお寺で暮らすことができる」と考えたお七は、自宅に放火したのです。火はすぐに消し止められたものの、お七は放火の大罪で、火あぶりの刑に処されました。。

(21)白山神社》 毎年、6月中旬に「文京あじさいまつり」が開催され、隣接している白山公園をふくめて約3,000株の色とりどりのアジサイの花を見ることができます。また、まつりの期間中は、アジサイの咲く富士塚に登ることができます(午前9時から午後5時まで公開)。

(24)小石川植物園》 小石川植物園は東京大学大学院理学系研究科の附属施設です。小石川植物園のホームページによると、「この植物園は日本でもっとも古い植物園であるだけでなく、世界でも有数の歴史を持つ植物園の一つです。約320年前の貞享元年(1684)に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」がこの植物園の遠い前身」とのこと。 開園時間は 午前9時~午後4時30分で、月曜日および年末年始が休園日です。16万1,588平方メートル(4万8,880坪)ある広大な園内には、ツバキ園、ソメイヨシノツツジ園、ヒマラヤスギ、サネブトナツメシマサルスベリ、ヤシ類、ニュートンのリンゴ、メンデルの葡萄、コダチダリアイロハモミジ並木、ソテツ、ハンカチノキ、カリン林、巨木並木、メタセコイア、公開温室、シナマンサク、シダ園、針葉樹林、日本庭園、林、薬園保存園があり、一年中花が咲いています。

(25)延命豆腐地蔵尊 (喜運寺)》 喜運寺は慶長元(1595)年、桜田門内に草創し、江戸城拡張により移設しましたが、明暦の大火で類焼したあと、現在地に移りました。このお寺は、「豆腐地蔵」で親しまれています。それには、こんな話があるそうです。訪れたときは門が閉まっていて、延命豆腐地蔵尊を拝むことはできませんでした。

 むかし、享保(1713~1736年)の頃、喜運寺の門前に豆腐屋さんがあった。
ここによく豆腐を買いに来る小坊主がいた。ところが、その小坊主が買いに来る日にかぎって売上げのかごの中に小石が数個入っているのに気がついた。

 主人の吉兵衛さんは、「あの小坊主がくさい」と考えた。
ある日、いつものように小坊主が来たので、吉兵衛さんはそっと後を追った。すると、気がついた小坊主は逃げ出した。
「待てー!」と叫んで追いかけた。そして、吉兵衛さんは包丁で小坊主の肩を打った。
「キャー!」
という悲鳴とともに、小坊主は姿を消してしまった。
驚いた主人は、これこそきつねたぬきの仕業かとあかりを照らして見ると、地面に石のかけらが落ちていた。石は水のようなものでぬれて点々と喜運寺の地蔵堂まで続いていた。不思議に思った主人は、堂内の、お地蔵様を見ると何と肩先が欠けているではないか。さっきの拾った石をそこに当てるとピタリと合った。小坊主は、お地蔵様の化身であったのである。
それから、このお地蔵様を人々は、「とうふ地蔵」と呼ぶようになった。そして、願いごとのあるときには豆腐を供えた。

(26)美幾(みき)女の墓 (念速寺)》 「コトバンク」によれば、美幾(みき)女は、「明治2年8月12日死去。34歳。翌日、医学校(東大医学部の前身)で解剖された。日本最初の遺体提供者」です。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、詳しい説明が載っています。墓は念速寺の本堂裏、千川通り側の塀ぎわにあります。幸薄い女性だったようで、どのような想いで自らの肉体を提供したのか想像すると、悲しい気持ちになってきました。

(27)こんにゃく閻魔 (源覚寺)》  源覚寺は、別名「こんにゃくえんま」と呼ばれ、広く信仰を集めています。源覚寺のホームページによれば、宝暦(1751~64年)のころ、目をわずらった老婆が、このえんま様に祈願をしました。えんま様は老婆に自分の右目を与えて目を治し、老婆は自分の好物のこんにゃくを絶ってお礼に供えたといわれています。以来、眼病治癒祈願に訪れる人が絶えません。また源覚寺には、歯痛で悩む人が塩を供えて祈り、治った後塩を倍にしてお礼参りした「塩地蔵」も祀られています。

―――コース距離は10キロメートルなのに、ここまで来ると疲れがでてきました。10メートルぐらいの高低差とはいえ何回も上り下りを繰り返したこと、お寺や神社の境内、庭園のなかなどをあちこち歩きまわったことが、意外とハードだったのかもしれません。最後に、(28)展望ラウンジ (文京シビックセンター25階) にのぼり、東京大学、小石川植物園はもとより、東京スカイツリーや新宿副都心の高層ビル群、富士山、筑波山を眺めるのはいかがでしょうか (無料です)。―――

 

ハーフコース、オプションコース

コースは、JR山手線・駒込駅、東京メトロ南北線・本駒込駅、都営三田線・白山駅を通ります。
王子駅から駒込駅までは約5キロメートル、王子駅から本駒込駅までは約7キロメートルです。
旧古河庭園と六義園とは、歩かれる時期によってどちらかを選択するよう案内しましたが、両方の庭園を見学されて駒込駅で終了、という歩き方もいいでしょう。
最後を後楽園駅ではなく、JR水道橋駅まで、後楽園遊園地をながめながら歩かれるなら、プラス900メートルです。

ちょっと寄り道

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